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【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
神立 尚紀
空母を発艦する零戦二一型
原田要氏。昭和16年、大分基地にて。当時一飛曹
空母「蒼龍」。昭和12年竣工、基準排水量15900トン、搭載機数常用57機、補用16機。「飛龍」とともに第二航空艦隊を編成し、真珠湾作戦に参加した
原田氏は昭和16年1月1日、郷里・長野で精さんと結婚した
昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で敵機の攻撃を受ける空母「蒼龍」(米軍撮影)
ガダルカナル島上空で重傷を負った原田氏は、その後内地で教官を務めた。昭和19年、百里原基地にて
原田氏は昭和43年、託児所(北部愛児園)をスタートする
原田要氏。園長を務めていた「ひかり幼稚園」で(1996年。撮影/神立尚紀)
原田氏(右)は2001年、真珠湾攻撃60周年記念式典のさいにハワイを訪問、ミッドウェー海戦で零戦に撃墜された元米海軍雷撃機パイロット、ロバート・H・オーム氏(左)と「再会」を果たした(撮影/神立尚紀)
昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の攻撃を受けるハワイ・真珠湾
真珠湾攻撃に出撃直前の大淵珪三中尉。当時24歳
九九式艦上爆撃機(写真は空母「飛龍」所属機)
発艦直後の飛行機より撮影した空母「赤城」
昭和17年4月5日、九九艦爆の猛攻を受け、沈没する英巡洋艦「ドーセットシャー」。昭和11年には江田島の海軍兵学校を親善訪問した
ミッドウェー海戦以降、大淵(本島)氏が心血を注いだ艦上爆撃機「彗星」
昭和17年後半、空母「飛鷹」艦上の大淵珪三大尉
昭和19年6月、横須賀基地より硫黄島へ出撃直前の大淵珪三大尉
本島自柳(大淵珪三)氏(2001年、撮影/神立尚紀)
昭和16年12月8日、ハワイ・真珠湾で日本海軍機の攻撃を受け、大爆発を起こした戦艦「アリゾナ」(手前)
森永隆義氏。真珠湾攻撃のときは飛行兵曹長(准士官)、すでに歴戦の艦攻乗りだった
森永氏が乗組んだ空母「加賀」。戦艦を建造途中に空母に改装した大型空母だった
昭和16年12月7日、真珠湾攻撃を翌日に控え、飛行甲板上で撮影された「加賀」艦攻隊総員の集合写真。2列め右から3人め森永飛曹長、6人め三上良孝大尉、4列め左から4人め吉野治男一飛曹。「加賀」艦攻隊93名のうち、78名が真珠湾攻撃に参加した
800キロ爆弾を搭載して飛行する九七式艦上攻撃機(写真は「赤城」所属機)
第一次発進部隊水平爆撃隊から見た真珠湾の米戦艦群。すでに魚雷を受け、重油が海に流れているのが見える。雷撃隊が外側(写真上側)、水平爆撃隊が内側(写真下側)の敵艦を狙う手はずになっていた
日本海軍機の奇襲を受け、炎上する真珠湾の米艦隊
真珠湾上空を飛ぶ九七式艦上攻撃機(「瑞鶴」所属機)
森永隆義氏(2001年、撮影/神立尚紀)
昭和16年12月8日、日本海軍機の攻撃を受けて炎上する真珠湾の米戦艦
丸山泰輔氏(昭和20年頃)
丸山氏が乗組んだ空母「飛龍」。「蒼龍」とともに第二航空戦隊を編成していた
真珠湾上空を飛ぶ九七式艦上攻撃機(空母「瑞鶴」所属機)
昭和16年12月8日、日本海軍機の攻撃を受けて炎上、沈みゆく真珠湾の米戦艦
昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受ける「飛龍」
丸山氏が九七艦攻に続いて搭乗した陸上爆撃機「銀河」。高性能な新鋭爆撃機だった
丸山泰輔氏。昭和18年11月、台南海軍航空隊教官の頃
丸山泰輔氏(2002年。撮影/神立尚紀)
2001年12月、ハワイ・真珠湾で行われた真珠湾攻撃60年記念セレモニー、戦艦「アリゾナ」記念館にて。左端で敬礼するのが丸山氏。その右は「蒼龍」零戦隊の原田要氏
昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の奇襲を受け、炎上する真珠湾
進藤三郎大尉(昭和17年11月、南方戦線へ発つ前、東京駅にて)
昭和15年9月13日、一方的勝利に終わった重慶上空での零戦初空戦を終え、漢口基地に帰投した進藤大尉
空母「赤城」。巡洋戦艦を建造中に空母に改装した大型空母で、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦で撃沈されるまで機動部隊の旗艦をつとめた
昭和16年6月、鴨池基地にて「赤城」戦闘機隊の搭乗員たち。2列め中央・板谷茂少佐、その右が進藤大尉、板谷少佐の左は指宿正信大尉。このうち数名は、9月に新編成された第五航空戦隊の空母「翔鶴」に転勤する
進藤氏が遺した真珠湾攻撃の機密書類の束。択捉島単冠湾で出撃搭乗員たちの打ち合わせが行われた11月24日から始まっている
昭和16年12月8日、「赤城」を発艦する進藤大尉乗機の零戦二一型。機番号はA1-102(1はローマ数字)
昭和18年、ラバウルにて。進藤氏はこの時期がいちばんつらかったと言う
昭和18年6月16日、零戦70機、九九艦爆24機の総指揮官としてガダルカナル島に向け、ブーゲンビル島ブイン基地を発進する進藤少佐乗機の零戦二二型甲。機番号は173
進藤三郎氏(1996年。撮影/神立尚紀)
昭和16年12月8日、真珠湾上空を飛ぶ空母「瑞鶴」の九七式艦上攻撃機
門司親徳氏。昭和16年、東京、築地の海軍経理学校でカッター訓練中の姿。東京帝大を卒業、日本興業銀行に籍を置きながら短期現役主計科士官として海軍に入り、同時に主計中尉に任官した
門司氏が乗組んだ空母「瑞鶴」。真珠湾攻撃の直前、昭和16年9月に竣工したばかりの新鋭空母だった
空母「瑞鶴」飛行甲板からまさに発進する、前方より零戦、九九艦爆、九七艦攻を艦橋より見る。昭和17年1月の撮影
門司氏(左)は昭和19年10月から20年5月まで、「特攻の生みの親」とも呼ばれる第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の副官をつとめた
門司親徳氏(2001年。撮影/神立尚紀)
三四三空司令・源田實大佐(左)と志賀淑雄少佐(右)。昭和20年春、松山基地にて。
川西航空機が開発した水上戦闘機「強風」(上)と、それをもとに陸上戦闘機とした「紫電」(下)
局地戦闘機「紫電改」。「紫電」の欠点をほぼすべて解消、従来の主力戦闘機・零戦をしのぐ性能をもつ新鋭機だった。
昭和38年1月公開の東宝映画「太平洋の翼」の脚本(第二稿)。
三四三空の飛行隊長たち。戦死順に、左から戦闘四〇七飛行隊・林喜重大尉、その後任の林啓次郎大尉、戦闘七〇一飛行隊・鴛淵孝大尉、戦闘三〇一飛行隊・菅野直大尉
昭和18年10月、鴛淵孝、林喜重、菅野直の「三隊長」が厚木海軍航空隊で一緒だったことを示す資料。各人のその時点での飛行時間などが記されている
「紫電改」の名が公になった昭和20年10月22日の毎日新聞記事
昭和20年4月21日、鹿児島県の阿久根海岸に不時着水した林喜重大尉機。林大尉はB-29邀撃戦で被弾、不時着水を試みたが、頭蓋骨骨折で戦死した。
ただ1人、志賀飛行長にスカウトされて三四三空に転勤した戦闘四〇七分隊長・速水経康大尉(中央)
昭和20年9月14日、大村基地に進駐してきた米軍人と志賀少佐(中央)。
米軍へ紫電改を引き渡すため、機体のテストをする志賀少佐(操縦席)
紫電改は日の丸が米軍の星のマークに塗り替えられ、昭和20年10月16日、志賀少佐以下、三四三空の搭乗員の手で横須賀基地に空輸された
航空自衛隊時代の源田實・元司令のサイン入り写真
山田良市。左は昭和19年、海軍飛行学生の頃。右は平成8年、自宅にて(右写真撮影/神立尚紀)
昭和19年、飛行学生の頃の山田良市(当時、中尉)
川西航空機が水上戦闘機「強風」をもとに、はじめて手がけた局地戦闘機「紫電」。メーカーの陸上機への不慣れから、未完成な部分が目立った
昭和19年9月、紫電の着陸時の脚故障で飛行機が転覆、頭に重傷を負ったときの山田良市
昭和19年、三四一空がフィリピン・ルソン島に進出した当時の写真。右から零戦、紫電、彗星などが並んでいる
局地戦闘機「紫電改」。「紫電」の中翼を低翼に改め、欠点がほぼすべて解消されていた
昭和20年3月、松山基地の三四三空戦闘七〇一飛行隊。前列左より4人めから、鴛淵孝大尉、相生高秀少佐(副長)、源田實大佐(司令)、志賀淑雄少佐、山田良市大尉
隊長・鴛淵孝大尉(右)と、3月19日の空戦で戦死した松崎國男大尉(左)。松崎大尉は当時の軍人としてはめずらしく、耳が隠れるほどの長髪である
昭和20年、三四三空当時の山田良市大尉
米戦闘機・ボートシコルスキー(チャンスボート)F4Uコルセア
米陸軍の戦闘機・リパブリックP-47サンダーボルト
米戦闘機・グラマンF6Fヘルキャット
名戦闘機隊長と謳われた鴛淵孝大尉(写真は中尉時代)。昭和20年7月24日戦死。山田はのちに、鴛淵大尉の妹・光子と結婚する
昭和20年7月末、鴛淵大尉戦死後の三四三空戦闘七〇一飛行隊。大村基地にて。前列左より2人めから、山田良市大尉、源田實大佐、志賀淑雄少佐
昭和40年、航空自衛隊時代の山田良市
山田良市。平成8年、町田市の自宅にて(撮影/神立尚紀)
昭和20(1945)年3月9日、出撃待機中の第二〇五海軍航空隊・神風特攻大義隊の隊員たち。
昭和20年4月28日、台湾・宜蘭基地から発進する、二〇五空特攻大義隊のブリーフィング。壇上に立つのは司令・玉井浅一中佐
角田和男さん。右は昭和19(1944)年11月、フィリピンで特攻待機中。左は、昭和20(1945)年、敗戦後、ふたたび着ることのない飛行服姿で撮った1枚。 角田さんは、「私は口下手だからうまく言えませんが、特攻隊員の心情を、この2枚の写真から察してください」と言う
昭和19年10月30日、米空母フランクリンに特攻機命中。角田和男少尉は、直掩機としてこの模様を上空から見ていた
第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉。昭和20年5月13日、台湾にて、大西の軍令部への転出に際し て撮影された1枚
戦後、かつて特攻を命じた側、命じられた側の関係者が60年間、ひそかに集っていた「神風忌」慰霊法要の参会者名簿
山本五十六聯合艦隊司令長官。開戦前、聯合艦隊旗艦「長門」にて。海軍省が公表した1枚
現在のラバウル全景。湾をはさんだ半島の、黒く見える平地がかつてのラバウル東飛行場
ラバウル市街にある旧日本海軍の防空壕、通称「ヤマモト・バンカー」の入口前には、25ミリ三連装対空機銃が残っていて、子供たちの遊び場になっていた
昭和18(1943)年4月、ラバウル東飛行場を発進する零戦を見送る山本五十六大将(中央)
昭和18(1943)年4月14日、ニューギニア東部のミルネ湾攻撃に出撃のため、ラバウル東飛行場に整列した空母「瑞鳳」零戦隊の搭乗員たち。手前のシルエットは、右が山本五十六大将、左は南東方面艦隊司令長官・草鹿仁一中将
昭和18(1943)年4月18日、山本長官機を護衛した6名の零戦搭乗員。上段右から森崎武予備中尉、辻野上豊光一飛曹、杉田庄一飛長。下段右から日高義巳上飛曹、岡崎靖二飛曹、柳谷謙治飛長
1972年、グラミー賞授賞式でのカーペンターズ(photo by gettyimages)
昭和16(1941)年、要務で出張した中国・青島で、麻の白い背広を着て外出する鈴木實さん。当時十二空分隊長
昭和12(1937)年撮影の空母「龍驤」戦闘機隊。中列左端が鈴木さん
昭和18(1943)年11月22日、ケンダリー基地を訪れた慰問団と。左から2人めが女優・森光子。その右、ヘルメット姿が鈴木さん
昭和18年5月頃。ヒゲ部隊隊長時代の鈴木さん。ケンダリー基地指揮所にて
飛行学生ならぬ非行学生だった頃の鈴木さん(右から二人め)
昭和35(1960)年、キングレコードと英国デッカ社との契約交渉。左がデリック・ジョン・クープランド氏、右奥が鈴木さん
カーペンターズのアルバム・シンブル盤の総売上枚数は1億枚を上回る(photo by gettyimages)
昭和49(1974)年、トム・ジョーンズと。来日公演を行った大阪のロイヤルホテルで
平成13(2001)年4月、体の自由を失いながらも字を書くリハビリに励む鈴木さん
昭和18年3月30日、岩国海軍航空隊に入隊するため、故郷・忍野村を発つ。当時17歳
昭和19年4月、台南海軍航空隊で訓練中の長田さん
昭和20年6月、特攻待機中の台中基地にて。前列左が長田さん
昭和20年9月、台中基地にて。4度特攻出撃しながら奇跡的に生き残った
昭和28年、横浜市警戸部警察署外勤主任の頃。派出所を巡視する長田さん
昭和28年、戸部警察署で刑事としてスタート
昭和30年代、金庫盗の現場見分をする長田刑事
昭和15年8月、零戦が正式採用された頃の松平さん。30歳
昭和11年8月の松平さん。当時26歳
空中分解した十二試艦戦2号機。事故原因調査のため回収された部品
零戦のフラッター事故からからくも生還した二階堂易中尉(左)。右は志賀淑雄大尉
10分の1模型車両転走実験装置。奥の人物が松平さん。昭和34年
東海道新幹線開業のテープカットをする石田礼助国鉄総裁
鉄道技術研究所長の頃の松平さん。欧米では航空機のエンジニアが鉄道車両の開発に関わることはななかった
松平精さん。1996年、学士会館にて。撮影:神立尚紀
佐々木原正夫少尉
原爆によって崩壊した浦上天守堂
8月9日、長崎に投下された原子爆弾Fat Man(ファットマン)
三四三空の紫電改
左、三四三空司令・源田實大佐。右、飛行長・志賀淑雄少佐
進藤三郎少佐
中村佳雄上飛曹
宮崎勇飛曹長
平成8(1996)年、上野村村長室にて 撮影:神立尚紀
昭和16(1941)年、元山空分隊長時代。漢口基地で、バックは九六式艦上戦闘機
昭和16(1941)年12月8日、台湾の高雄基地を出撃直前の三空戦闘機隊員たち。中央軍服姿で答礼する人物は司令・亀井凱夫大佐
昭和17(1942)年2月、セレベス島ケンダリー基地上空を飛ぶ三空の零戦
昭和19(1944)年2月、豊橋基地よりバリクパパン基地に進出する三八一空の零戦
ヘリコプター以外は近寄れない現場に、2000人を超える救難救助隊員たちが徒歩で登っていった
車が近寄れない墜落現場での遺体収容作業は困難を極めた
昭和60(1985)年8月、日航ジャンボ機墜落事故現場で。右から黒澤さん、小寺弘之群馬県知事、山口上野村議会議長
墜落現場の尾根に立てられた慰霊碑
昭和19(1944)年秋、横須賀海軍航空隊にて。当時、少佐
戦闘三〇四飛行隊長・日高盛康少佐
戦闘三〇四飛行隊・吉田勝義飛曹長
日高盛康少佐の率いる戦闘三〇四飛行隊の零戦
三四三空飛行長・志賀淑雄少佐(中央)
筑波空飛行長・進藤三郎少佐
谷田部空・小野清紀中尉
谷田部空・木名瀬信也大尉
米軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-32
横空分隊長・岩下邦雄大尉
小町定飛曹長
大原亮治上飛曹
坂井三郎少尉
昭和18年8月31日、ブレストに入港直前の伊号第八潜水艦
最初の遣独潜水艦、伊三十潜砲術長・竹内釼一少尉。昭和17年8月、凱旋門上で
桑島齊三さん(昭和16年、戦艦長門艦上にて)
ドイツ海軍の機雷原突破船に護衛されてブレストに入港する伊八潜
昭和18年8月31日、伊八潜はブレストに入港。右手に見えるブンカー(潜水艦用防空防禦係留地)に、まさに入ろうとするところ
ブンカー内に係留を終えると、ドイツ海軍のクランケ大将が来訪し、内野艦長と固い握手を交わした
艦を降り、花束を手にブンカーの階段をのぼる内野艦長以下、伊八潜乗組員たち
ブレスト潜水隊司令・ウインター中佐と内野艦長
乗組員の歓迎式。艦に数名の当直を残して、全員がこの式に臨んだ
シャトーヌフでの日独親善交歓会
パリ・エッフェル塔をバックに。軍服姿左から2人めが桑島さん。写っているのは電波兵器講習員と、呂五百一潜(Uボート)回航員で、このうちのほとんどは昭和19年、呂五百一潜とともに大西洋で戦死した
ドイツから譲渡された20ミリ四連装対空機銃は、伊八潜後甲板に据え付けられた。中央右寄り、双眼鏡をかけているのが内野艦長、その右の士官服(詰襟に襟章)が大竹砲術長。伊八潜には最後まで、この機銃が装備されていた
「晴嵐」。世界に類例のない、潜水艦搭載の攻撃機だった
淺村敦大尉。昭和20(1945)年5月、「晴嵐」機上にて
伊四百一潜の艦橋前部に口を開く飛行機格納筒。ここに「晴嵐」3機を格納した
伊四百一潜後甲板に装備された14センチ砲
横須賀に回航して米軍に接収された伊四百一潜と伊十四潜(右)
横須賀で米軍に接収された第一潜水隊の3隻。手前(右)から、伊四百潜、伊四百一潜、伊十四潜。接収直後で、米軍人とともに日本側乗組員の姿も見える
昭和19年11月25日、フィリピン近海で米空母「エセックス」に突入する特攻機
昭和19年11月11日、マニラ湾岸道路より離陸する神風特攻梅花隊の零戦
昭和19年10月25日、米護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に突入せんとする神風特攻敷島隊の零戦
門司親徳。東京帝大卒業後、主計科士官として海軍に入る。第一航空艦隊副官をつとめ、特攻の一部始終を見届けた
昭和19年9月12日、「セブ事件」のさいに戦死した森井宏大尉(左)と大石英男飛曹長(右)
昭和19年2月17日、米空母を発艦したダグラスSBDドーントレス艦上爆撃機の空襲を受けるトラック島
昭和19年2月17日、中部太平洋における日本海軍の拠点・トラック島は米軍機の烈しい空襲を受けた
南太平洋の最前線基地・ラバウル東飛行場の零戦。トラック基地が大打撃を受けたため、ラバウルの航空戦力はすべてトラックに引き揚げさせることになった
太平洋要図。黄色でマークしたのがラバウル。赤くマークした地点は、右(東)よりトラック、パラオ、ダバオ、マニラ
ゲリラの捕虜となった福留繁中将(左)と、「ダバオ水鳥事件」「セブ事件」で更迭された寺岡謹平中将(右)
パラオからダバオへ向かう途中、乗機が行方不明になり殉職した連合艦隊司令長官・古賀峯一大将
寺岡中将の後任として第一航空艦隊司令長官となった大西瀧治郎中将。フィリピンで最初の特攻隊を編成した
特攻兵器開発の直接の責任者、軍令部第一部長・中澤佑少将(左)と第二部長・黒島亀人少将(右)。二人はそれぞれ、海軍の作戦と軍備を統括していた
「人間魚雷」とも呼ばれる「回天」(上)と、「人間爆弾」とも呼ばれる「桜花」(下)
マニラからクラーク・フィールドのマバラカットへの道中、アラヤット山を右前方に望むこのあたりで大西中将は「決死隊を作りに行くのだ」と決意を口にした(写真は2020年3月。撮影/神立尚紀)
大西瀧治郎中将と副官・門司親徳主計大尉。昭和20年5月、台湾にて
フィリピンのクラーク・フィールド、マバラカットにあった二〇一空本部の建物は2017年に取り壊され、いまはフライドチキンのケンタッキーになっている(2010年3月。撮影/松井雄希)
二〇一空司令・山本栄大佐(左)と飛行長・中島正少佐(右)
二〇一空司令・山本栄大佐の日記より。昭和19年10月19日、不時着事故で骨折したときの記述。特攻隊が編成されたのは山本司令が入院中のことだった
特攻隊の指揮官に選ばれた関行男海軍大尉。このとき23歳だった
昭和19年10月20日、マバラカット西飛行場の滑走路のはずれのバンバン川原で、特攻隊の別杯。左端後ろ姿が門司親徳副官。左端の搭乗員が指揮官・関行男大尉。関大尉の茶碗に水を注ぐ後ろ姿は玉井浅一中佐。中央手前の後ろ姿は大西中将
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日に、大西中将が敷島隊、大和隊の隊員たちと別杯を交わしたバンバン川の河原は、ピナツボ山の大噴火で地形は変わったものの、面影はとどめられている。河原の向こうにマバラカット西飛行場、さらに奥に東飛行場があった。画面右にアラヤット山が遠望される(2020年3月。撮影/神立尚紀)
500キロ爆弾を搭載して特攻出撃する零戦
昭和19年11月25日、米空母「エセックス」に特攻機が命中した瞬間
昭和19年10月30日、特攻機の突入を受け炎上する米空母「ベロー・ウッド」
昭和20年4月11日、戦艦「ミズーリ」に突入寸前の零戦
昭和20年4月11日、戦艦「ミズーリ」に突入寸前の零戦
昭和20年8月、銀座6丁目の朝日新聞別館屋上にて。左が國友光子さん。バックの左に写る焼け焦げたビルは松坂屋銀座店
2001年2月、日本橋で筆者が撮影した國友光子さん。雑誌「別冊写真工業」に掲載された1枚(撮影/神立尚紀)
昭和20年1月27日、銀座、有楽町、京橋あたりは米軍のB-29の空襲を受けた(撮影/石川光陽)
昭和20年1月27日の空襲で、銀座界隈は大きな損害を受けた
昭和21年頃、国会議事堂に勢揃いした新聞各社の連絡員(オートバイ部隊)たち。右から2人めが、國友さんが思いを寄せていた「パンちゃん」
千葉県・茂原基地に並ぶ第二五二海軍航空隊戦闘第三〇四飛行隊の零戦
戦闘第三〇四飛行隊長・日高盛康少佐。昭和20年8月15日、空戦の指揮をとった
戦闘第三〇四飛行隊・吉田勝義飛曹長。部隊きっての歴戦の戦闘機乗りだった
吉田勝義飛曹長の8月15日の日記(部分)
8月15日、戦闘三〇四飛行隊が房総半島上空で激突した敵機。上からグラマンTBFアベンジャー、スーパーマリン・シーファイア、フェアリー・ファイアフライ
福島県郡山基地の零戦。吉田飛曹長はここに着陸して終戦を知る
吉田飛曹長日記より、8月15日の空戦で戦死した人たちの氏名
厚木基地の第三〇二海軍航空隊の局地戦闘機雷電
8月15日、零戦に搭乗し、三〇二空の戦闘機隊を率いて藤沢上空で敵機と戦った森岡寛大尉
厚木基地を発進する雷電
8月15日、藤沢上空で三〇二空と戦った米軍のグラマンF6Fヘルキャット
昭和20年8月16日に軍令部より出された停戦命令。この時点ではまだ、自衛のための戦闘は認められている
昭和20年8月19日、22日零時をもって一切の戦闘行動を停止する命令が出された
米陸軍の新型爆撃機・コンソリデーテッドB-32
昭和20年、横須賀海軍航空隊の戦闘機パイロットたち。左端は大原亮治上飛曹
8月18日、日本海軍最後の空戦に参加した、左より岩下邦雄大尉、小町定飛曹長、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹
千葉県大多喜町で発見された零戦の部品。左より落下傘の紐を連結する金具、油冷却器シャッター操作部、主脚ホイル外周片(撮影/中村泰三)
千葉県大多喜町で発見された零戦の部品。エンジン部分(撮影/中村泰三)
千葉県大多喜町で発見された零戦の部品。墜落の衝撃で折れ曲がった機銃(撮影/中村泰三)
千葉県大多喜町で発見された、地面に埋もれた零戦の機銃弾(撮影/中村泰三)
昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦を飾って漢口基地に帰還した13名の搭乗員(飛行服姿)と、第十二航空隊の主要幹部。前列左から光増政之一空曹、平本政治三空曹、山谷初政三空曹、末田利行二空曹、岩井勉二空曹、藤原喜平二空曹。後列左から横山保大尉、飛行長時永縫之介少佐、山下小四郎空曹長、大木芳男二空曹、北畑三郎一空曹、進藤三郎大尉、司令長谷川喜一大佐、白根斐夫中尉、高塚寅一一空曹、三上一禧二空曹、飛行隊長箕輪三九馬少佐、伊藤俊隆大尉。搭乗員の肩越しに零戦の列線が見える
昭和15年8月、揚子江上空を飛ぶ北畑三郎一空曹操縦の零戦。撮影は進藤三郎大尉
垂直尾翼に二本線を記した零戦3-165号機は、昭和15年8月19日、零戦初出撃の日には進藤三郎大尉が搭乗し、9月13日の初空戦のさいには末田利行二空曹が搭乗した
中華民国空軍第四大隊所属の徐吉驤(華江)中尉と、愛機ポリカルポフE-15(И-15bisあるいはИ-152とも)
ソ連製戦闘機・ポリカルポフE-16(И-16)
徐中尉機は水田に墜落、大破。徐中尉は重傷を負ったが命に別状はなく、持っていたカメラで愛機の残骸を撮影した。写真は横倒しになった胴体の操縦席側からのアングルである
昭和15年8月19日、零戦初の出撃を前に漢口基地に整列した搭乗員たち。左端は見送りに来た支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎中将。飛行服の搭乗員は、最前列左端が横山保大尉、続いて羽切松雄一空曹、東山市郎空曹長、進藤三郎大尉、北畑三郎一空曹、白根斐夫中尉
昭和15年9月12日、零戦3度目の出撃前の整列。漢口基地にて。飛行服の搭乗員左端が横山保大尉。以下、最前列に羽切松雄一空曹、東山市郎空曹長、白根斐夫中尉、北畑三郎一空曹、山下小四郎空曹長が並ぶ。右端の人物の足元にじゃれている犬は、子犬の頃から十二空で飼われていた「蒋介石」。隊員たちのマスコット的存在だった
昭和15年9月13日、零戦初空戦の指揮官・進藤三郎大尉(右写真撮影/神立尚紀)
岩井勉二空曹(右写真撮影/神立尚紀)
三上一禧二空曹(右写真撮影/神立尚紀)
昭和15年9月13日、重慶上空より漢口基地に帰還した指揮官・進藤三郎大尉。後方で腰に手を当てているのが、第二聯合航空隊司令官大西瀧治郎少将。進藤大尉は薄いサングラスをかけている
昭和15年9月13日、夕日に照らされた漢口基地で、零戦初空戦の戦果を報告するため整列した搭乗員たち。周囲に人の輪が広がっている
零戦初空戦から58年後の平成10(1998)年8月15日、かつて戦火を交えた三上一禧(左)と中国空軍の徐華江(右)は、東京で奇跡的な再会を果たす。徐は三上に、「共維和平」と揮毫した掛軸を贈った(撮影/神立尚紀)
再会の翌年、平成11(1999)年3月、こんどは三上が台湾に徐を訪ね、高雄、台南、台中、嘉義と、かつて日本軍の航空基地のあった中華民国空軍の拠点をともに訪ねた。写真は高雄市岡山区の空軍軍官学校で(撮影/神立尚紀)
令和元年5月11日、三上一禧氏の102歳の誕生日会。初空戦当時を再現した零戦の模型を前に(撮影/神立尚紀・模型製作/水間守)
宮野善治郎が遺した海軍兵学校休暇日記(昭和9~12年)
宮野日記より、支那事変がはじまった昭和12年夏季休暇中の「所感」のページ
支那事変がはじまった昭和12年夏季休暇中の宮野日記(部分)。中国大陸での「事変」の見通しにはっきりと悲観的な所感を述べている
昭和12年夏季休暇中の宮野日記(部分)。航空兵力が戦艦をも凌駕するとの所見を述べている
昭和12年夏季休暇中の宮野日記(部分)。教官が、事変について悲観的な見方については「所感概ね適切なり」と認めながら、航空万能論については「目先の華々しきのみを思わず海上武人たる本分を自覚し、教務に精励せよ」とたしなめている
昭和12年冬休暇、宮野が海軍兵学校最上級生のとき。母・アサ(右)と妹・美津子(左)、甥・宮崎守正と地元の写真館で撮影
昭和14年、宮野は飛行学生となる。霞ケ浦海軍航空隊で、九三式中間練習機をバックに
宮野善治郎。昭和16年、日米開戦を控えて高雄基地で撮られた1枚
空母「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉。海軍兵学校では宮野の3期先輩だった
ラバウル東飛行場にて、二〇四空の零戦三二型
ラバウル東飛行場に並んだ二〇四空の零戦の列線。二一型と二二型あるいは三二型が混在している
31回にわたって宮野の三番機をつとめた大原亮治二飛曹。ラバウルにて。バックは「花吹山」とよばれた活火山・タブルブル山
宮野の三番機、四番機として飛んだ中村佳雄二飛曹(一飛曹当時)。ラバウルで現地の住民と
昭和18年5月頃、前進基地ブインにて、二〇四空の下士官搭乗員たち。前列左より大原亮治、大正谷宗市、中村佳雄、後列左より橋本久英、杉田庄一、坂野隆雄の各二飛曹。大原、中村以外の4名は戦死した
昭和18年6月16日、ブイン基地を出撃前に、総指揮官進藤三郎少佐(左)の訓示を聞く隊員たち。わかりづらいが、前列右から3人めの長身の人物が宮野善治郎大尉。宮野の姿をこの世にとどめた最後の一枚
昭和18年6月16日、ブイン基地。宮野大尉機最後の離陸。宮野はこの日、行方不明となり戦死が認定された
宮野善治郎の死後の叙勲を伝える、昭和20年3月16日の朝日新聞記事
昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の攻撃を受けるハワイ・真珠湾
志賀淑雄大尉。昭和14年。
志賀大尉が乗組んだ空母「加賀」
志賀は昭和20年、源田實大佐が司令を務める第三四三海軍航空隊飛行長となった。写真は昭和20年春、松山基地にて。源田大佐(左)と志賀少佐(右)
志賀淑雄氏(1998年、撮影/神立尚紀)
昭和13年、中尉時代の志賀淑雄氏
昭和15年、大分基地の私室にて。
志賀淑雄氏。左は昭和14(1939)年、右は平成10(1998)年
真珠湾攻撃で戦死した三番機・佐野清之進二飛曹の宮城県の実兄に宛てて、志賀大尉がしたためた戦死の状況を報告する手紙。当時、戦死した部下一人一人の遺族にこのような手紙を書いていたという(資料提供・佐野和夫氏)
昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の猛襲を受けるハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊
藤田怡與藏中尉(写真は昭和17年後半、空母「飛鷹」分隊長の頃。当時大尉)
藤田中尉が乗組んだ空母「蒼龍」。昭和12年12月完成。基準排水量15900トン、全長227.5メートル、搭載機72機という本格的な正規空母だった
真珠湾攻撃で自爆した飯田房太大尉(左から二人め、こちらを向いている人物)。昭和十六年、鈴鹿海軍航空隊に近い三重県の白子駅でのスナップ。撮影・日高盛康
昭和39年、皇太子ご夫妻(現上皇ご夫妻)搭乗機の機長をつとめる
藤田怡與藏氏(1999年。撮影/神立尚紀)
ハワイ・カネオヘ海兵隊基地の飯田房太大尉機墜落地点につくられた記念碑(撮影/神立尚紀)
第一種軍装の藤田氏。大尉の階級章と服装から昭和18年末から19年はじめの三〇一空飛行隊長の頃と思われる
藤田怡與藏氏。左は昭和17(1942)年、右は平成11(1999)年(右写真撮影/神立尚紀)
昭和16年12月8日(日本時間)、日本海軍機の雷撃を受ける真珠湾の米戦艦群。海面には波紋や雷跡が見える
吉野治男氏。昭和18年2月頃、豊橋基地にて
真珠湾に向け荒天の北太平洋を航行する空母「加賀」(左)
空母を発艦し、真珠湾攻撃に向かう雷撃隊の九七式艦上攻撃機。機体の下に魚雷が見える
日本海軍機の攻撃を受け、炎上する真珠湾の米戦艦群
数々の激戦をくぐり抜け、すでに歴戦の搭乗員となっていた頃の吉野治男氏
昭和20年10月30日、米軍に引き渡す偵察機「彩雲」の前で。椅子に座る右から2人め・空輸指揮官市川妙水大尉、左端に立つのが吉野治男少尉
吉野治男氏(2004年、撮影/神立尚紀)
昭和19年10月25日、敷島隊の特攻機の突入を受け、炎上する米護衛空母「セント・ロー」
2021年9月に行われた戦没零戦搭乗員の慰霊祭で。軍艦旗に署名する元特攻隊員・荒井敏雄氏(撮影/神立尚紀)
昭和19年11月8日、全国の映画館で公開された「日本ニュース」第232号より。上から10月20日、21日、25日の映像が一日の出来事のように編集された
昭和19年10月26日、マニラの一航艦司令部の前庭で、初櫻隊の命名式。画面左に軍刀を地に突いた大西中将が写っている
フィリピンではなおも続々と特攻隊が編成された。金剛隊の命名式で搭乗員と握手をする福留繁中将
昭和19年11月11日、梅花隊の直掩としてマニラ湾岸道路を発進する角田和男少尉搭乗の零戦。海軍報道班員だった毎日新聞の新名丈夫が撮影した
フィリピンから台湾に引き揚げた搭乗員の多くは、そのまま特攻大義隊に編入される。前列左端は鈴村善一二飛曹、後列右から2人めは角田和男少尉
昭和20年4月、沖縄戦が始まると、台湾から次々と大義隊の特攻機が出撃していった。壇上で出撃前の訓示を述べる玉井浅一中佐
特攻隊員として5度の出撃から生還した杉田(旧姓小貫)貞雄。戦後はエアフィルター製造会社を経営(右写真撮影/神立尚紀)
4度の特攻出撃から生還した長田利平。戦後は神奈川県警で刑事となる(右写真撮影/神立尚紀)
大西瀧治郎中将。昭和20年5月、軍令部次長となって帰国したさい、自宅前で撮られた一枚とされる
昭和20年8月16日、自刃した大西瀧治郎中将の遺書
大西瀧治郎、淑惠夫妻。昭和18年5月以降の撮影と思われる
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた「神風忌」慰霊法要の参加者名簿。特攻に関わった主要人物の名が自筆で記されている
元二〇一空司令・山本栄大佐は戦後、クリスチャンとなり、信仰に生きた。左写真は昭和18年6月、ブーゲンビル島ブイン基地で部下の角田和男と(立っているのが山本)。右写真は亡くなる数年前、戦友会に招かれて挨拶する山本
第一航空艦隊副官を務めた門司親徳主計少佐。昭和と平成、年号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に亡くなった(右写真撮影/神立尚紀)
海軍有数の歴戦の戦闘機乗りで特攻隊員だった角田和男中尉は、戦友たちの慰霊巡拝に生涯を捧げた(右写真撮影/神立尚紀)
フィリピンのクラーク・フィールドの特攻隊ゆかりの地・バンバンでは、門司親徳の薫陶を受けたロニー・デラクルスが「バンバン歴史博物館」を運営し、現地での特攻の語り部となっている。写真は2020年3月、門司親徳の長男・和彦氏と(撮影/神立尚紀)
2004年5月、靖国神社境内を歩く門司親徳(左)と角田和男(右)(撮影/神立尚紀)
「赤城」艦爆隊の大淵珪三中尉(のち少佐、戦後、本島自柳と改名)
真珠湾攻撃に向け航行する空母「加賀」(左)と「瑞鶴」(右)
出撃前の空母「瑞鶴」の搭乗員たち
「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉)
「赤城」戦闘機分隊長・進藤三郎大尉(のち少佐)
蒼龍」戦闘機隊分隊長・飯田房太大尉(中央)
真珠湾攻撃、ヒッカム飛行場上空を飛ぶ九七艦攻(左上)
「加賀」戦闘機分隊長・志賀淑雄大尉(のち少佐)
「加賀」雷撃隊の吉野治男一飛曹(のち少尉)
「飛龍」雷撃隊の丸山泰輔二飛曹(のち少尉)
炎上、まさに沈没しようとする戦艦「アリゾナ」
第二次発進部隊制空隊指揮官として空母「赤城」をまさに発艦する進藤三郎大尉の搭乗機
雷撃を受け、着底する戦艦「カリフォルニア」
「蒼龍」零戦隊の藤田怡與藏中尉(のち少佐)
ハワイ・オアフ島のカネオヘ海兵隊基地の、飯田房太大尉機墜落地点の記念碑。2001年12月、真珠湾攻撃60周年に慰霊祭が執り行われた(著者撮影)
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