なぜ日本人は大地震や戦争のリスクがあっても決して逃げないのか

都市と消費社会の拘束力
貞包 英之 プロフィール

「敗戦」のレッスン

この意味で安吾の「対処」を、敗戦によって発見された貴重なレッスンとして受け止める必要がある。

20世紀の全面戦争という巨大な出来事は、国家やそれを支える集団にやみくもに従うのではなく、人びとが自分で「工夫」し、命を守ることの重要性をあきらかにした。

しかし振り返って、敗戦が教えたこのレッスンを、私たちがいまなお骨身に染みて受け止めているかには疑念が残る。

「堅固な室内に入れば核ミサイルもやり過ごせる」といった国家の約束はまともには信じられていないとはいえ、今ではその代わりに多くの人は仕事や快適さを与えてくれる大都市の暮らしに依存し、それに命を預けている。

健康や美容、子供の教育などに私たちは強い関心を払うにもかかわらず、そのすべてを台無しにするかもしれない命の危険に関しては早々に諦め、大都市に留まり続けているのである。

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こうした安易な諦念を支えているのは、ひとつには戦後日本のシステムといえよう。

たとえば学校・企業の大都市への集中的な配置は、経済発展を推進し、快適な消費社会をつくりだすことに貢献してきた。しかし同時にそれは大都市の外で暮らすという想像力を奪い、その先に自分で自分の命を守ることさえむずかしい「社会」をつくりだしている。

もちろん破局が起こるかどうかは誰にも分からず、現実的にはまだ何も起こっていない。しかし少なくとも今回の危機は、大都市へと私たちを縛り付ける「戦後」日本の拘束力の強さを照らしだす機会となった。

それを相対化するためには、安吾が教えてくれた「敗戦」のレッスンにもう一度立ち戻ることが必要になるのかもしれない。