なぜ日本人は大地震や戦争のリスクがあっても決して逃げないのか

都市と消費社会の拘束力
貞包 英之 プロフィール

坂口安吾の場合

だとすれば「敵」の来襲が問題になるだけではない。それと同時に、多くの人びとを大都市の命運と強く結びつける社会的な諦念こそ、実は不気味といえるのではないか。

もちろん全ての人が大都市と運命を共にすることをすんなりと受け入れたわけではない。たとえば先の大戦でも大都市から逃げ遅れた人が大勢出たが、そのなかで坂口安吾は、戦争が始まるとすぐに故郷の新潟に戻り、朝昼晩、三度、海に入り水泳をくりかえしたという。輸送船が沈没し、波に揉まれた際でもどうにか生き残るためと後に彼は嘯(うそぶ)いている(坂口安吾「わが戦争に対処せる工夫の数々」、初出1947年)。

坂口安吾(PHOTO: wikimedia.org)

それで自信を得て東京に帰った安吾は、今度は頑丈な防空壕をつくった上で、冷水に浸かり息を止める練習をした。B29から爆弾が落とされ、焼夷弾によって火事に包まれた際にも、どうにか一人生き残るためである。

馬鹿げた工夫にみえるかもしれない。たしかにいくら努力をしても、莫大な破壊力を持つ近代戦においては、どれほど生存率が高まるかは怪しいといえる。

安吾も、そのことに気づいていなかったわけではない。戦争では「絶対に死なゝい」工夫は有り得ないと安吾はわりと冷静に考えていた。

しかしだからこそ、「なるべく死なゝい工夫」に安吾はしがみつく。可能性からいえば大して変わらなかったとしても、生き残るためにあがくこと。見る人から見れば馬鹿らしい「対処」を重ねながら、安吾は安易に他の人びとと運命を一緒にすることに逆らおうとしたのである。

命の配慮

安吾のそうした試みの背後にあるのは、自分自身の命への「配慮」を大げさで、みっともないものとみせる集団や国家への抵抗といえる。

日本のみならず、20世紀以降、国家の力は膨張した。安全と快適さの提供を求める代わりに、国家は生命与奪の権をますます強め、国家が死を求める場合には仕方がないことと諦めるように人びとは迫られてきた。

しかし安吾は、この暗黙の強制に抵抗する。すべてのルールに反対するわけではない――安吾は戦後税金の支払いにも抵抗したが――としても、命を守るという根本の権利だけは、国家に譲り渡さないこと。

実際、敗戦は人びとの命を守るものとして国家が信頼できないことを白日に晒した。国家は多くの人びとの命を奪うとともに、その終わりが、日常生活そのものの破滅となるわけではないことをあっけなくも示したのである。

安吾が先に述べていた戦争に対するさまざまな「工夫」も、こうした敗戦という事実を暗に織り込んでいた可能性を差し引く必要がある。

安吾が戦争中、そこまで赤裸々に生き延びようとしていたかは、実は疑問である。安吾の年譜を追うかぎり、よりリアルには、多くの人びとと同じように流され、また捨て鉢に戦時下の東京に暮らしていたようにもみえる。

しかしだからこそ安吾はその戦後に書かれたエッセイのなかで、敗戦という事実を前提にむしろ戦争中の自分のあるべき姿を見直し、語り直しているのである。