なぜ日本人は大地震や戦争のリスクがあっても決して逃げないのか

都市と消費社会の拘束力
貞包 英之 プロフィール

ただし混乱が発生しなかったことは、そのように理解されるだけではない。

危機のなかでの驚くべきほどの平静さは、実は以前にもみられたことだからである。先の大戦においても、空襲の危険が刻一刻と迫り、米軍の警告を受けながらも、多くの人びとが大都市に留まり、結局は逃げ遅れた。

逸見勝亮『学童集団疎開史』(大月書店、1987年)によれば、なかなか進まない世帯単位の疎開計画に対し、1944年6月以降、政府は「老幼婦女子」の避難に重点を移し、なかでも児童の疎開に力を入れていく。それでも大都市からの避難は進展せず、ようやく動き出すのは、学校単位での集団疎開を推し進めて以降なのである。

ではなぜ、人びとは大都市を離れようとしなかったのか。

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受け入れ先がみつけがたかったことに加え、「防空法」が都市から逃げ出すことを禁止していたためという見方もある。都市の延焼を食い止め、また生産力の低下やパニックを防ぐために、政府は大都市からの移動を禁じていた。

たしかに政府は、1943年以降、疎開を「勧奨」するように切り替えている。しかしそれ以降も一般人を疎開させる具体的な動きはみられなかった(水島朝穂・大前治『検証 防空法』法律文化社、2014年)。

とはいえ空襲が迫ってくるなかで、大多数の集団が都市に留まっていたことには、政府の抑圧だけではなく、彼・彼女たち自身の選択もみる必要がある。

そもそも戦時下といえども、学校や会社、工場が休みになったわけではない。多くの住民やその家族は生活を続けていくために、学校や会社、工場に通わざるを得ず、だからこそ大都市を立ち去ることができなかった。

いつ来るかわからない空襲の危機と較べ、落第や失職、または一人だけ逃げ出したことに対する周囲からの疑念の目は、ある意味よほどリアルな危険になったのである。