今回の人物 石原莞爾 vol.5

今も残る満州帝国の遺物。長春で、日本人の構想力を考えた

vol.4 「列車に乗り大連から瀋陽へ。荒廃していた満州帝国の中心地」はこちらをご覧ください。

 長春の駅前は、瀋陽(奉天)とはまったく違っていた。

 駅前広場は開けていてそこから、ベルリンのウンター・デン・リンデンよりも広いメインストリート(斯大林大街)が伸びてゆく。

 その行き止まりは、石原莞爾が発案した、建国大学の正門だ。「五族融和」をスローガンとした大学の教授として、石原がレフ・トロツキーを招こうとしたことは、よく知られている。

 メインストリートの両側には、帝冠様式の建築(上野の東京国立博物館本館を代表とする様式で、鉄筋の西洋式ビルディングの頭に瓦等東洋の意匠が載っている)が、立ち並ぶ。

 旧国務院、旧関東軍司令部、旧関東軍参謀本部、旧満州国皇帝宮殿・・・。

 宮殿が完成する前に満州帝国は倒れてしまったが、宮殿の建築はそのまま継続されて、地質宮として落成した。この辺り、中国の人の大らかさがよく出ている。

地質宮満州国皇帝宮殿として建設されるも頓挫。長春政府が建設を引き継ぎ、昭和29年に完成

 日本人が作った、偽満州国の傀儡の宮殿であっても、作りかけたものを壊してしまうのは勿体ないから、完成させて使ってしまえ、というような。

 いずれにしろ、長春、かつての満州国の首都が、いかなる偉容を備えていたかを、目の当たりにさせてくれる場所であることはたしかであった。

 私は、訪れて一目見て、その雄大さに打たれてしまった。

 日本人の構想力、実現力は、けしてせせこましいものではない。途轍もなく巨きな、世界に比類ないスケールのものを、創り出すことが出来るのだ、と。

 長春は、他の東北部の都市と同様に、日露戦争の結果、日本の勢力下に入った。

 北のハルピン、南の奉天に比べれば、話にもならない、小規模な町だった。

 長春が激しく変貌したのは、満州事変の後であった。

 満州国建国に際して、関東軍は清朝以来のしがらみのある奉天ではなく、ほぼ未開拓の長春に、新しくアジアに生まれた帝国にふさわしい大都市を建設することを目論んだのであった。

 満州国皇帝溥儀―当初は執政であったが―は、関東軍の構想に反対したが、否も応もなかった。

 新京と改称された長春の街並みに、陸続と壮麗な建築が立ち並ぶなか「皇帝」だけが、仮宮殿住いを余儀なくされたのであった。

東條英機を揶揄し、無聊を慰めた不遇時代

 昭和十二年九月、石原莞爾は関東軍参謀副長として、新京に赴任した。

 蘆溝橋事件以来の日中の軍事衝突において、戦線の縮小、早期講和を主張し続けてきた石原は、主戦論を掲げる軍主流派に敗れ、参謀本部第一部長の座を追われたのである。

 新京時代は、石原にとって不本意な時代だった。

 上司である参謀長、東條英機はことごとく石原の提言を退け、しまいには書類を廻さなくなった。その過程には、石原の、上司を上司とも思わない、直言や揶揄があったのだけれど。

 後に石原は東條を「上等兵」と呼んで愚弄したけれど、上等兵はかなり不当な評価だろう。少なくとも、連隊長としては、優れていた事は間違いがない。

 新兵らに対する私的制裁を全面的に禁じ、兵営生活を明朗にするよう心がけ、食事等の待遇にも気をくばった。不況下、除隊しても働き口がない兵士の就職斡旋のために奔走した、部下思いの連隊長であった。

 もちろん閣僚の器であったかというと、大きな疑問符がつくのだけれど。

 石原は、権勢を振るう関東軍の幕僚や、岸信介、星野直樹らの満州国官僚にたいして、精一杯のレジスタンスをした。

 すでに少将まで昇進していたにもかかわらず専用車に乗らず、歩いて参謀本部に通った。石原は若い頃、乗馬の事故で睾丸を強く打っていて、歩行には難儀していた。

 宴会、パーティの類には顔を出さず、個人的な集まりでも、芸者、酌婦らが侍る席にはあらわれなかった。

   ∴

 太宰治や檀一雄とともに、『青い花』、そして『日本浪曼派』の同人だった小説家木山捷平は、昭和十九年十二月、満州国農地開発公社嘱託として、新京に赴いた。

 敗色が濃くなるなか、大陸に渡るのはかなりのリスクを伴うことだが、さして売れない作家が生きていく余地は、国内にはなくなりつつあった。古今亭志ん生と三遊亭円生という、昭和を代表する名人が渡航したのもこの頃である。

 満州に行ったものの、仕事はほとんどなかった。どこでもいいから、好きなところに旅行して、文章を書いてください、という誠に気楽な境遇であった。木山は、白ロシア人の集落などを訪ねて日々を過ごした。

 二十年八月八日、ソビエトが日本にたいして宣戦布告してから、すべてが変わった。木山は一兵卒として現地召集され、敵戦車に地雷を抱えて突進する訓練を受けた。

 ポツダム宣言受諾により、「特攻」しないですんだけれど、身の上は難民となった。満州人から白酒を仕入れて売り歩くが自分でも呑んでしまうので、いつしか仕入れの元金もなくなり、ホテルの韓国人支配人の手下として、ボロ売りになるのだが、やってみると満更でもない。このまま地元の女性と結婚してボロ売りとして人生を全うしようか、等と考えるようになる。

「どやされもどうもせんよ。むしろ向うから大歓迎さ。五馬路のボロ屋仲間で、日本人の木川と言ったら知らぬものはもう一人もない―とまではまだいかないが、そのうちそれに近い状態になるかも知れないよ。わしはなんとなくそういう予感がしているんだ。それというのも、元をただせば、みんなあんたがボロ屋をすすめてくれたおかげだと思って、感謝しているんだよ」

「おだてんでもよろし。それよりあんたが泥酔しないうちに、明日の商売品の取り決めをしておくことにしようよ」(『長春五馬路』)

 山崎豊子の『大地の子』が描いた熾烈な国共内戦のさなか、誠に長閑な対話が展開されている。

以降 vol.6 へ。

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