「大阪都構想」を覚えていますか…橋下徹が世間をあっと言わせ、そして敗北したときに維新メンバーが考えていたこと

連載「維新戦記」第3回
衆議院議員・米山隆一氏は、新潟県知事を務める前の2012年から2015年にかけて、日本維新の会に所属し、衆参選挙を戦った過去がある。彼がみた「維新」の本質とは何か? 衝撃の手記、第3弾。

連載第1回(前編後編)、第2回もあわせてお読み下さい

橋下氏の奇策

大阪・堺市長選挙が終わってから、当面、国政選挙は先だろうという事で、私は少々のんびりとした気持ちで、東京と地元新潟を行き来する生活を送っていました。2013年のこの時、初めて小泉郵政解散選挙に立候補して落選した2005年から既に8年が経過していました。浪々の身の私は、

「桃栗三年柿八年 米山十年 頑張ります」

という句をブログに書き記しています

一方で、大阪市の橋下徹市長(当時)が率いる「大阪維新の会」の看板政策である大阪都構想は、前回の連載で書いたように、前哨戦と位置づけられた堺市長選で惨敗したこともあって、混迷を極めていました。

当時の大阪都構想は大都市地域特別区設置法に基づいて、24区からなる、政令指定都市の大阪市を廃止して、5つの特別区に分割・再編するもので、要するに大阪市の廃止の是非を住民投票で問うものでした。

この区割り案を定める法定協議会は、大阪府知事、大阪市長、府議会9人、市議会9人の20人で構成されており、このうち維新は、松井一郎大阪府知事(当時)、橋下大阪市長、府議5人、市議3人の10人を占めていました。

この中で自民党や民主党系、共産党がはっきりと反対。維新は20人中10人を占めていましたが、採決では、維新から出している法定協議会の会長、浅田均氏(現参議院議員)が採決に加わらないために、公明党の協力を得なければ、可決できない状況にありました。

橋下氏はじめ維新執行部は、恐らく最終的には公明党の賛成を得られると考えていたのだと思いますが、2014年1月31日の法定協議会でその思惑は外れ、公明党の反対で区割り法案は否決されてしまいました。これによって橋下氏らが目指していた2015年の住民投票のスケジュールの達成が極めて困難な状況に陥ったのです。

この事態を受けて橋下氏は、「大阪都構想に反対なら僕の首を取ればいい」と嘯いて大阪市長を辞任して再度大阪市長選挙に打って出るという奇策に打って出ました

このとき私は、当時国会議員だった松浪氏と大阪都構想の情勢を話しましたが、松浪氏が「橋下はやるよ!」と上気した声で語っていたのを覚えています。

大阪の維新のメンバーは皆、悲願達成に向けた橋下氏の「覚悟」に感動していました。

(c) 現代ビジネス編集部(c) 現代ビジネス編集部

同年3月23日に投開票となった大阪市長選挙は、他の主要政党が維新の戦略には乗らないとして、候補者を出さない中で87.51%の得票率で橋下氏の圧勝に終わりました。

しかし、当然のことながら出直し市長選挙をしたところで市議会・府議会の構成が変わるわけではなく、新潟にいる私には「多額の税金を用いて自分の人気を誇示する為のパフォーマンス」以上の意味は見出せませんでした。

 

その後も、大阪都構想の状況が変わることはなく、法定協議会は相変わらず混迷しました。この状況に業を煮やした維新は、6月になると事態を打開するべく「法定協議会の委員を入れ替える」という更に強引な奇策に打って出たのです。

6月17日、7月3日の両日、維新は、「法定協議会の事務は協定書の作成を行うことであり、協定書の作成を行わないのは義務違反で異常だから正常化する!」と言う無茶苦茶な理屈を掲げます(通常の法解釈なら、協定書の作成を行う団体は、協定書の作成を行わない事もできます)。

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