日の当たらぬ「ひかげ」にこそ動乱期の昭和が映し出される
永井荷風Vol.6

vol.5はこちらをご覧ください。

 昭和七年一月、第一次上海事変が起き、三月には満州国の建国が宣言されるとともに血盟団員により団琢磨が撃たれ、五月には五・一五事件で犬養毅首相が殺された。昭和動乱の幕がいよいよ開いたのである。

 この年の末、荷風は私娼である黒澤きみを待合でみかけ、翌年から深くつきあうようになり、毎月五十円の手当を与えるようになった。当時、大卒の初任給が六十円である。「晩餐後黒澤きみの行衛をさぐる手がゝりを得んものと思ひて、兼て聞知りたる其親戚の家を浅草東三筋町にたづねしが遂に得ずして止む。おきみといふ女の性行経歴はこれを委しくさぐり出さば必小説の材料となすに足るべきものと思はれしが故なり」(『断腸亭日乗』昭和八年六月六日)

 荷風は、岩井三郎探偵事務所に、黒澤きみの身元を調べさせ、その本籍、本名とともに、きみに情夫、平たく言えば所謂ヒモが居る事を確かめて昂奮した。この昂りから生まれたのが、『ひかげの花』である。

 中島重吉とそのつれあいお千代は、西久保桜川町の硝子店の二階に間借りしている。表向き、派出婦という事になっているが、実際には千代が私娼として稼いでいる。「男はお千代が今年三十六になつて猶此のやうな強い魅惑を持つてゐるのを確めると、まだこの先四五年稼いで行けない事はないと、何となく心丈夫な気もする。

 それと共に人間もかうまで卑劣になつたらもうお仕舞ひだと、日頃は閑卻してゐる慚愧と絶望の念が動き初めるにつれて、自分は一体どうしてこゝまで堕落する事ができたものかと、我ながら不思議な心持にもなつて来る」

 重吉は、一時は不動産会社に勤めつつ、かなり歳上の女性と同棲していた。その女性が死んだ時、葬式の手伝いとして雇ったのがお千代で、彼女が気に入り同棲するとともに、かつての女の衣装を着せて歌舞伎座に出向くような事をしていたが、金融恐慌で会社が潰れ、財産も失くしてしまい、お千代に寄生して生きていく事を決心する。「まだ学生であつた頃---今日のやうにカフヱーやダンス場などの盛にならなかつた頃から、重吉は女の歓心を得るためにはどんな屈辱をも忍び得られる男である事を自覚してゐた」

私娼と共産主義者の接点とは

腕くらべ』の新橋芸者、『つゆのあとさき』における銀座のカフェーは、各時代の風俗を代表する存在であった。そのような視角から見れば、動乱期の昭和は、「ひかげ」によってこそ、象徴されるという事なのだろうか。

 小説の末尾でお千代は、自分と同様に私娼を営んでいて逮捕された実の娘、おたみと邂逅する。「母はわたくしに貸間の代を倹約するために母の家に同居したらばと云ひ、それから、もう暫くこゝの家にゐて、貯金ができたら、将来はどこか家賃の安い処で連込茶屋でもはじめるつもりだと云ひます。

 すると彼氏が、貯金はもう二千円以上になつたと側から言ひ添へました。/わたくしは今まで行末のことなんか一度も考へたことがありませんから、弐千円貯金があると言はれた時、実によくかせいだものだと、覚えず母の顔を見ました。母は十八でわたくしを生んだのですからもう三十七になります」

 些か不謹慎かもしれないが、私娼を営む男女の生活は、当時の非合法活動に携わっていた共産主義者たちの日常と、すくなくとも外見上は似ていないでもない。人目を忍び、細心に疑いを招かないように努力をし、ちょっとでも異変を感知すれば、すぐに居を移す。

 理想社会の実現のために---その教義が正しかったかどうかは別として---生命を賭した人々と、内縁の妻に春をひさがせる事で生計を立てている者たちを同列に扱うことは、非難をまぬがれないだろうが、その道行きは、不思議なほどよく似ている。

 小林多喜二が、本格的な地下生活に入ったのは、昭和七年の四月初旬だったとされる。その時に、ともに潜ったのが、伊藤ふじ子であった。

 伊藤ふじ子は、多喜二の『党生活者』の登場人物、「笠原」のモデルとされている(異論をとなえる研究者も少なくない)。小説において「笠原」は、語り手である「私」の生活を支えるため、タイピストを辞め、カフェの女給になる。

称名寺 東京・港区にある寺の境内には、地下生活を送った小林多喜二が身を隠していた

 ふじ子は、カフェに勤める事はなかったが、いつ官憲に検挙されるか分からない、危険で不安定な、ぎりぎりの生活を図案会社で働きつつ、小林の伴侶として支えた。

 ふじ子は、麻布東町の称名寺境内の貸間を借り、そこに多喜二は転がり込む。一日中、日の当たらない部屋だったというが、地下生活者にとっては、得難い場所だったのかもしれない。

 七月に、ちかくの麻布新網町の二階の六畳間にうつり、ここで『党生活者』の執筆がはじめられた。

 九月には麻布桜田町の借家に移る。

 桜田町での生活は、四ヵ月近くに及んだが、伊藤ふじ子は、勤め先の銀座図案社で検挙され、小林自身は、上京していたふじ子の母の機転により、虎口を辛うじて逃れた。

 ふじ子の拘束期間は短かったが、勤め先は解雇された。ごく少額の解雇手当を、ふじ子は同志に託して小林に届けてもらったという。

 昭和八年二月二十日、小林多喜二は赤坂福吉町の路上で逮捕され、築地署で拷問を受けて、死亡した。遺体は築地小劇場に移送された。

「築地小劇場で気をもんでいる原泉のところへ、一人の若い女が近づいてきた。/『わたしは小林の女房です』/とその女性は言った。/原泉に見おぼえのある顔である。『左翼劇場』に研究生としていた伊藤ふじ子であることは、顔を見てすぐわかった。原泉は『シーッ』と指で唇をおさえ、かかえるようにして劇場内の電話ボックスの横へ引っぱっていった。

 多喜二といっしょにいた女ということがわかって特高につかまれば、どんな事態になるか。/『あんたが女房だなどと言ったらどういうことになると思うの』と精一杯の思いで話した。/伊藤ふじ子は、/『あの人にどうしても一目会いたい』/と言った。/ちょうど取材のため、どこかの新聞記者が車で来た。『むこうへ行って、なにもいわないでお別れしてらっしゃい』と原泉はふじ子に言い、新聞記者には、『すまないけれどもこの人を連れて行ってほしい』と馬橋の小林家を教えた。夜になっていた」(「小林多喜二への愛」、『完本 昭和史のおんな』澤地久枝)

 文中の「原泉」は、中野重治夫人である。

 ふじ子は、昭和九年三月、漫画家の森熊猛と結婚し、昭和五十六年四月二十六日、脳卒中で死んだ。七十歳だった。
 

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