2022.06.21
# 日本史

教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配機構説

史上たった一度、天皇が自ら出陣した理由
日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)からおもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその四回目だ。 三回目はこちら

日本は一時期、朝鮮半島南部を統治していた

4世紀末から6世紀、日本は朝鮮半島南部を統治していました。これについて日本や韓国では賛否両論あるものの、世界では共通の認識となっています。アメリカ、カナダ、オーストラリアの教科書、そして中国の教科書にまで、日本の半島南部支配について記述されています。

 

しかし、日本の一般的な教科書には、これについての記述がありません。「新しい歴史教科書をつくる会」による教科書で、「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」と記述されていましたが、文部科学省は2002年、「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と検定意見を付け、突き返しています。

『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本(ヤマト政権)が任那をはじめ伽耶を統治していたことが記されています。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域を指す呼び名です。「広開土王碑」には、日本は391年、百済を服属させたことが記されています。新羅と百済は日本に王子を人質として差し出し、日本は任那を足場として、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使しました。

中国の史書『宋書』では、倭の五王の朝鮮半島への進出について記述されています。同書の中の「倭国伝」では、倭王讃が死に、その弟の珍が後を継ぎ、使者を派遣した際に、朝鮮半島南部一帯(「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」と記述)を支配する「安東大将軍倭国王」に任命するよう求めたとされ、宋の文帝は詔を出して、これに応じたと記されています。中国によって付けられた「倭国」という名称が辺境の野蛮な弱小国家というイメージを強く与えていますが、日本は中国も一目置く強国でした。

こうした古代日本の朝鮮統治の実態は日本の歴史教科書に記されず、教えられません。日本の学者たちは『日本書紀』に記された任那日本府がヤマト政権の支配機構ではなく、朝鮮半島に渡った倭人の共同体に過ぎないと主張しています。文部科学省はこうした見解を取り入れ、教科書に記述させないのです。

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