2022.06.22

「生還不能の新兵器」で多くの部下を死に追いやった「司令部の無能ぶり」

一度は却下されたはずが…

75年前の今日、1944年10月25日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。

この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする「搭乗員必死」の戦法は、戦局が圧倒的に不利になってから採用された作戦である。だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われない戦場へ搭乗員たちが死を決して出撃していくという状況になっていたという。

この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻という作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部のあまりの無策ぶりにあるという。

<【前編】特攻機の盾となった戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」>に引き続き、その経過を語ります。

 

たった一度の攻撃で戦力の8割を失う

このときの日高隊には、さらに追い打ちをかけるような、隠れた出撃時の不手際があった。

通常、空母から発進するさいには、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れないまま発艦していたのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携がとりづらい欠点があった。

空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置がわからない。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時にかかった荷重のせいか、故障していて何も聞こえない。無線も通じず、進退きわまった日高は、列機を小隊ごとに解散させ、おのおのの小隊長の航法にまかせて母艦に帰投を試みることにしたが、2機が機位を失して行方不明になった。

日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐことができたが、このために、ただでさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とほぼ半減し、敵空母上空に待ち構えていた38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。

艦攻、艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火をかいくぐって、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機、艦爆17機、零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆はそれぞれ4機のみである。8割を超える艦爆、艦攻を、たった一度の攻撃で、搭乗員とともに失ったのだ。

昭和17年10月26日、南太平洋海戦で、日本機の攻撃を受ける米空母「ホーネット」

「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長とともに戦死したのは、このときのことだった。

――日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令どおり、攻撃隊の護衛についていれば味方攻撃隊の犠牲を少なくできたかもしれない。しかし、そうするとみすみす敵機による味方機動部隊への攻撃を許すことになり、ミッドウェー海戦の二の舞になった可能性もゼロではない。

こんにちの目で日高の判断の是非を論じるのはむずかしい。だが、現場指揮官が遭遇し、瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも、「自分が日高大尉の立場ならどのように行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われたほどの教訓を、この戦いは残した。

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