2022.06.17

現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか

「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国

邪馬台国はどこにあったのか? この難問を考える手がかりは遺跡・出土品や『魏志倭人伝』の記述などさまざまですが、どれも決め手を欠いている状況です。そこで一つ、検討してみたいのが、中国大陸との交易路です。

女王・卑弥呼は国づくりのため積極的に大陸に船を出し、有用な物資や技術を導入していました。しかし、朝鮮半島から対馬海峡を横断して日本に帰る航海は至難の業で、現代人による実験航海でもほとんどが失敗しているのです。

なぜ卑弥呼の船は戻れたのか? 船舶設計のプロフェッショナルであり、このほど『日本史サイエンス〈弐〉』を上梓した播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。

「卑弥呼の船」を考える

弥生時代の日本で邪馬台国が最大の国として発展したのは、女王・卑弥呼が中国大陸と活発に交流し、先進的な文化や技術を導入したからと考えられます。そのためには船が必要です。卑弥呼はいったいどのような船で、大陸と行き来していたのでしょうか。それを知ることは、邪馬台国の場所を考えるうえでも必要になってくるはずです。

以下の遺跡に、参考になる出土品が4例あります。

A:袴狭(はかざ)遺跡(兵庫県出石町)

4世紀の遺跡で、船が描かれた線刻画(図「卑弥呼の船を考える」A)と、大小16隻の船団の杉板が出土しています。これらは卑弥呼の時代から約110年後に朝鮮半島から来た船団か、日本から朝鮮半島へ渡った交易船と考えられます。川を航走する川船と違って、船の前後を高くして波を乗り切る船型となっています。

B:東殿塚古墳(奈良県天理市)

3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳に、和船の線刻画が描かれています(図B)。片舷に7本のオールがあり、最後部に舵取り用と思われるオールがあります。この時代の和船は帆がなく、中央の帆のように立っているのは旗用の柱と思われます。やはり船首と船尾が高く、海を渡ることが可能になっているようです。

C:長原高廻り2号古墳(大阪府大阪市)

5世紀前半の船形の埴輪が出土しています(図C)。朝鮮半島や中国大陸と交流して中国の史書『宋書』に「倭の五王」と記された天皇たちの時代にあたります。これも船首、船尾が高く、航海が可能なようです。

D:西都原古墳(宮崎県西都市)

5世紀の船形埴輪が出土しています(図D)。これらの埴輪がつくられた5世紀までの船は比較的、小型で、やはり帆は見られず、櫂を漕いで進んでいました。

【図】卑弥呼の時代の船は? 古代遺跡から出土した資料から考える卑弥呼の船を考える A袴狭遺跡から出土した船団の線刻画の模式図 (『兵庫県埋蔵文化財情報・ひょうごの遺跡』37より)  B東殿塚古墳線刻画(兵庫県立考古博物館) C長原高廻り2号古墳の船形埴輪(大阪歴史博物館) D西都原古墳の船形埴輪(東京国立博物館)

卑弥呼の時代の船は、基本的には木をくり抜いた丸木舟の両側や前後を覆っただけの構造で、帆はなく、櫂やオールを漕いで進んでいました。海に出るにはかなりの危険をともないましたが、それでも船首と船尾を高くするなどの工夫をして、大陸へと漕ぎ出していったのです。

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