特攻待機中に終戦を迎えた「元零戦搭乗員」が「生まれ変わったらなりたい」と語ったモノ
日本と中華民国が泥沼の戦いを続けていた1941年、日本海軍の零戦隊が中国空軍の天水飛行場を急襲、飛行機全機を撃墜、あるいは地上で炎上させた。「天水空戰」と呼ばれるこの戦いは、中国では「空軍史上、最も恥辱の一戦」とされている。中国軍の将兵は敗戦の責任を問われ、全員が胸に「恥」の文字の入ったバッジをつけさせられたという。
2020年、中国でこの戦いのドキュメンタリー番組が制作されることになり、筆者の元へ取材依頼が舞い込んできたのだが――。
<【前編】ゼロ戦隊に「恥辱の大敗」を喫した中国軍将兵がつけさせられたバッジに書かれた「一文字の漢字」>に引き続き、「天水空戦」をめぐる日中の将校の運命について語る。

その後、終戦を迎え…
天水空襲の指揮官・鈴木實大尉はその後、8月11日に試飛行を終えて漢口基地に着陸するさい、車輪が回転せず飛行機が転覆、頸椎骨折の重傷を負う。事故の原因は車輪の部品の錆びつきによるもので、整備不良であることは明らかだった。
「車輪がロックして、飛行機がつんのめって逆立ちしたところまでは憶えていますが、後のことはわかりません。気がつくと、十字架のように縛られて横になっていました」
鈴木は移送された別府海軍病院のベッドの上で、真珠湾攻撃、対米英開戦を告げるラジオ放送を聴いた。
そして頚椎骨折の後遺症を抱えながらも前線に復帰、昭和18年、第二〇二海軍航空隊の飛行隊長(少佐)として、蘭印(現・インドネシア)を拠点に、オーストラリア・ダーウィン上空でイギリスが誇る名機スピットファイアを圧倒した。日豪の記録を突き合わせると、鈴木が率いる零戦隊がスピットファイア34機を撃墜したのに対し、零戦の損失は2機(うち空戦によるもの1機)である。

昭和20年8月15日、鈴木は台湾に本拠を置く第二〇五海軍航空隊飛行長として特攻待機中に終戦を迎え、9月5日付で中佐に進級した。
中華民国軍が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の委託に基づき、日本軍の武装解除のため台湾に進駐してきたのは9月に入ってからのことである。
中国軍の占領方針は、蒋介石の「仇に報いるに徳を以ってせん」の言葉どおり、旧怨を感じさせない紳士的かつ穏やかなものであった。
宿舎が収容所と名を変えただけで、中国軍による監視もない。日本軍将兵は最後まで帯刀を許され、階級章もつけたままだった。これまでと同じように、自由に外出することもできた。
鈴木は中国空軍司令官・張柏壽中将の隣室に私室を与えられ、運転手つきの黒塗りの専用車をあてがわれた。その車を使って、毎晩のように台中の日本料亭に入り浸っても、何の咎めもなかった。