おいしくなくてもいい
土井さんは、前著「一汁一菜でよいという提案」でテレビなどで見る、一口食べた瞬間に「オイシイ!」と叫ぶようなおいしさと、身体の感じ方は違うものだと書いている。
「お肉の脂身やマグロのトロは、一口食べるなり反射的においしい! と感じますが、それは舌先と直結した『脳』が喜んでいるのだと思います。そのように脳が喜ぶおいしさと、身体全体が喜ぶおいしさは別だと思うのです。
身体は鈍感、ということでもないのですが、すぐにはわからず、食べ終わってから感じる心地よさのような感覚、身体がきれいになったような気がする……というあれです。(中略)その穏やかなやさしさに、脳は気づかないことが多い」
「若い人が『普通においしい』という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。(中略)よく母親が自分の作る料理について『家族は何も言ってくれない』と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います」(「一汁一菜でよいという提案」より)
そして一汁一菜の考え方をこう話してくれた。
「忙しい仕事の毎日というのはシンプルで良い、普通で美味しければ良いわけで、それが一汁一菜にはあります。一汁一菜というのは、食べ飽きることがないものです。味噌も漬物も微生物が作り出した美味しさです。ご飯だって味付けないお米そのものの味は、人間業ではありません。淡々と暮らすことです。簡単なことを丁寧にすることで自分のいる場所に戻ってリセットできるでしょう。『整える』……心を落ち着けて、次に備えます。暮らしの基本を一汁一菜にすれば、必ずいいことがあります。まず、健康になるし、ダイエットになるし、感受性が豊かになる。同じことの繰り返しだから、小さなことに気がつけるのです。毎日の味噌汁、ひと碗の中に無限の変化があるのです」
きちんとした食事の「きちんと」とは
「新しい家庭を築くはじまりに、また、
「人間の子どもは、生まれてから大人になるまで、その親にすべて
そしてこう話す。「食事とは、食べるだけではありません。『料理して食べる』ことが食事です。そこには『作る人と食べる人』の関係があります。食べる人は、作る人がどんな気持ちで作ったかという、料理の向こう側のものと一緒に食べているのです。それが大事な経験です。いつもより美味しくて『このお芋おいしいね。どうしたの?』って子供が言えば、それは『おばあちゃんが送ってくれた新芋だよ』って答えれば、その芋を食べた経験が身体のどこかに記憶されます。芋ひとつとってもいろんな経験を蓄積するのです。すると別の機会に、そんな芋を見ただけで、あっ、このお芋はおいしいものだって、食べる以前に、予測できるようになるのです。経験がなければ何もわかりません。
教育でいちばん大事な意味は、人の気持ちがわかるようになることです。それは思いやりそのものだし、人を幸せにする力だし、自分自身が幸せになる力です。違うことに気づくことができるのです。違いがわかるということが感性です。コンビニのものを買って食べるというのは、作る人の顔がないということです。それでは経験にはなりません」
自分が料理して家族が食べる。家族が料理して自分が食べる。自分が作って自分で食べる。「どんな形でも良いのです、家族が料理して食べるということを大切にすることです。それを誰もが実現できる」のが、土井さんの提案する一汁一菜という食事のスタイルなのだ。
「家庭料理というのは子供の居場所を作る仕事です。無条件で安心できるのが料理のあるところ。子供は心から安心できる家庭があるから、自信が持てる。安心のない自信なんてないのです。自信が勇気になって、はじめて自分の知らない世界に旅立てるのです。勇気は責任になるし、大人になって、また、家族に大きな愛情を注げるようになるのです。だから子供たちには、絶対の安心を持たせてあげてください」(土井さん談)