元エース記者が暴露する「朝日新聞の内部崩壊」〜「吉田調書事件」とは何だったのか(2)

朝日新聞政治部(2)

「鮫島が暴露本を出版するらしい」「俺のことも書いてあるのか?」――いま朝日新聞社内各所で、こんな会話が交わされているという。元政治部記者の鮫島浩氏が上梓する『朝日新聞政治部』(5月27日発売、現在予約受付中)​は、登場する朝日新聞幹部は全員実名、衝撃の内部告発ノンフィクションだ。
戦後、日本の左派世論をリードし続けてきた、朝日新聞政治部。そこに身を置いた鮫島氏が明かす政治取材の裏側も興味深いが、本書がもっとも衝撃的なのは、2014年に朝日新聞を揺るがした「吉田調書事件」の内幕をすべて暴露していることだ。
同書の内容を抜粋して紹介する。7日連続公開の第2回は、新聞記者が新人時代に必ず通る「地方支局でのサツ(警察)回り」の実態だ。

キャリア官僚の話に興味が持てない

私は1994年に京都大学法学部を卒業し、朝日新聞に入社した。バブル経済は崩壊していたものの、その余韻が残る時代だった。数年後にやってくる就職氷河期の「失われた世代」や現在の「コロナ禍世代」と比べれば、気楽な就職活動の時代であった。

鮫島浩氏

当時の京大生のご多分に漏れず、学業に熱心とは言い難い生活だった。就活中の1993年は自民党が衆院選に敗北して下野し、細川連立内閣が発足した戦後政治史の重要な年である。京大キャンパスのある衆院京都1区(当時は中選挙区制)からは、のちに民主党代表となる前原誠司氏が日本新党から出馬して初当選した。だが、私にはこの衆院選の投票に行った記憶がない。

新聞も購読していなかった。母子家庭で仕送りがなく、奨学金とアルバイト代で辛うじて学生生活を送っていたというのは言い訳である。

トイレも風呂も洗面所もない「離れ」に下宿した入学当初はたしかに厳しい暮らしだったが、3~4年生になると塾講師のアルバイトで稼いで自分の車まで所有していた。単に「学び」に不熱心だったというほかない。国立大学なら奨学金とアルバイトで何とか下宿し、通学し、それなりに遊び、卒業して就職できる幸運な時代だった。

朝日新聞の採用試験を受けたのも、当時交際していた同じ年の女性が新聞社志望で、募集要項をもらってきたのがきっかけだった。今となってはそこに何を書き込んだのかも覚えていない。朝日新聞といえばリベラルというくらいの印象しかなかった。ただ、これを境にそろそろ就職活動をしないといけないとにわかに焦り始めたことを覚えている。

親しい友人たちが国家公務員一種試験(法律職)を目指して勉強していたので、遅ればせながらその輪に入れてもらった。2~3ヵ月、過去問をひたすら解いて挑んだ筆記試験に合格し、友人たちに驚かれた。要領は良かったのだろう。その後、キャリア官僚と「面接」を重ねたが、自慢話を聞かされるばかりで興味を持てなかった。そこで、様々な業種から名前を知っている大企業をひとつずつ選んで訪問することにした。銀行、生保、メーカー……。朝日新聞はそのひとつに過ぎなかった。世間知らずの学生だった。

面接は得意だった。当意即妙の受け答えには割と自信があった(政治記者になった後も記者会見やインタビューで二の矢三の矢を放つのが好きだった)。それが功を奏したのか、朝日新聞を含め、いくつか内定をいただいた。

朝日新聞の東京本社や京都支局にうかがって現役の新聞記者にも会ったが、興味のわく人はいなかった。キャリア官僚と同じ匂いがした。

私は朝日新聞の内定を断った。代わりに選んだのが新日鉄(現・日本製鉄)である。この会社は会う人会う人が魅力的だった。私は新日鉄にのめり込んでいった。各地の製鉄所も見学させてもらった。「鉄は国家なり」と熱く語る人、ヒッタイト以来の鉄の歴史を研究して披露する人、鉄鋼労働者が暮らす四畳半の宿舎を案内し「君がこの会社で最初にする仕事はこの部屋が煙草の不始末で火事にならないようにすることだ」と説く人。みんな思いが詰まっていて、キャリア官僚や新聞記者より輝いて見えた。

 

なかでも私を気に入ってくれたのが、Sさんだった。私は京都から大阪・梅田の高層ビルに入る高級店に何度となく呼び出され、「君と一緒に仕事をしたい」と口説かれた。Sさんはパリッとしたスーツに身を固め、紳士的で、格好良かった。キャリア官僚や新聞記者とはまるで違った。私は新日鉄へ入社する決意をSさんに告げた。

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