2022.05.24

マリアナ沖海戦で、多くの日本機が撃墜されたことを指して米軍が名づけた「屈辱的なスラング」

グアム、サイパンをはじめとするマリアナ諸島——今はリゾート地となり、連日多くの日本人観光客が訪れる。

75年前の今日、1944年6月19日に、この島々の沖合で日米の機動部隊が激突した。

マリアナ諸島が奪われれば、日本本土が空襲にさらされることになり、この島々は本土防衛のための最終ラインだったのだ。この決戦に大敗したのち、日本本土は焦土と化すことになる。

惨敗に終わったこのマリアナ沖海戦をからくも生き延びた搭乗員が、戦後50年を経て絞り出すように口にしたのは、日本の将来を背負うはずだった優秀な若者たちをたった2日で3000人以上も戦死させたことへの怒りだった。

<【前編】たった2日で3000人以上が戦死したマリアナ沖海戦の悲劇>に引き続き、本稿ではマリアナ沖海戦の悲劇について語る。

 

司令部の責任逃れ

藤本速雄さんは言う。

「零戦のエンジンは1100馬力、グラマンF6Fは2000馬力。スピードも違う、防弾装備も違う。グラマンの13ミリ機銃は弾道直進性がよく、遠くから撃たれても命中しやすい。性能ではとても太刀打ちできない。それが450機、日本の空母9隻の全搭載機より多いんですよ。

それからアウトレンジ戦法と言うけどね、たった48機の零戦で80機の攻撃隊を護衛して、400浬(約740キロ)も操縦していって、これだけのグラマンが来て、どうやって戦えますか。例えて言うなら、長距離を走ってきた1人の小学生を、高校生3人ぐらいがつかまえて叩くようなもので、技倆以前の問題です。どんなに腕のいい搭乗員でも、これでは生きて帰るのが不思議なぐらいで、上手とか下手とかの次元じゃない。技倆云々を言うのなら、それをまず頭に入れてからにしてほしい。負けたのを搭乗員の技倆のせいにするのは、司令部の責任逃れだと思うんです」

大戦後期、アメリカ海軍の主力戦闘機だったグラマンF6Fヘルキャット

所属する小隊4機のうち3機が撃墜され、ほかの味方機ともはぐれて単機になってしまった藤本さんは、クルシー(無線帰投装置。空母が発する電波の方向を航路計の針が示す)がキャッチした電波を頼りに引き返し、空母「千代田」に着艦した。目標物が何もない海の上を何時間も飛行し、戦闘までして、一人でふたたび洋上の一点に過ぎない空母に帰りつくのは、想像以上に困難なことだった。空母は高速で航行していて、発艦時とは位置が大きく離れているからなおさらである。

「空戦中は気がつかなかったけど、着艦して機体を調べてみたら、被弾が6発ありました。そしたら艦長・城英一郎大佐が私のところへ飛んできて、どんな状況だったかって聞くんですよ。『千代田』から発進した爆戦隊は1機も還ってないらしい。それを艦長が心配してね……。全部やられたんでしょうが。

翌日(6月20日)、『千代田』の零戦2機と私の3機で上空を哨戒して、2時間半ほど飛んで『瑞鶴』に戻ったら、近くにいるはずの『大鳳』『翔鶴』の姿が見えない。おかしいな、と思ったら、2隻とも、敵潜水艦の魚雷にやられてすでに沈んでたんです。『瑞鶴』も、搭乗員室はガランとしていて誰もおらん。還ってきたのがほとんどいなかったから」

SPONSORED