2022.05.18
# 本 # 格闘技

猪木が「アントン・ハイセル事業」のかたわら、私に見せた「沈黙という起爆剤」

【連載】〈小説のごとく奇なり〉アントニオ猪木 もう一つの貌 第三章(後編)
前後編記事の後編です。前編はこちらから

イノキの汚名と呼ばれた事業

広々とした空間に、二人だけで黙って坐っている時間が、心地よく過ぎていった。イノキは、しばらくすると脇にあった草を一本抜き取ってタバコのように口にくわえ、じっと地面に目を落としていた。

「蟻のうごきって、じっと見ていたことあります? クラスに一人くらい、体だけやけにでかくて、ボーッとしている子がいませんでしたか。おれは小学生の頃そういうタイプだったんですよ。だから、皆から離れてじっと蟻のうごきを見てることがよくあったんですが、よく見てると面白いんですよね、蟻のうごきって」

そう言って、イノキは私の目を覗き込んだ。冗談を向けられているような、何かを試されているような、妙な気分が私をつつんでいた。

「こうやって地面を見て、しばらくじっとしていると、ふと風の音だけが聴こえてくる瞬間(とき)があるんですよね……」

ここが、イノキが目下取り組んでいるブラジルの燃料問題と公害問題をともに解決する目的での、アントン・ハイセルの事業の拠点たる工場に隣接するアントン牧場であることに、私は強くそそられた。

そこでイノキは、事業やプロレスについて話すのではなく、蟻のうごきの不思議さや、無音の中でそれだけ耳にとどく風の音などについて、呟くように言葉を紡いでいる。その貌は、おそらく幼い頃の尾骶骨のように、ずっとイノキに宿りつづけているのだろう、と私は思った。

講談社写真資料室講談社写真資料室

家族とともにブラジルへ移住し、その地で力道山と出会って日本へ連れ戻され、プロレスラーとなったあげくモハメド・アリとの闘いのあと、その試合への毀誉褒貶さまざまな取り沙汰の渦の果てに、「アリと闘った男」としてプロレスの枠を超えた世界的知名度を獲得し、その知名度の力をバネとして第二の故郷たるブラジルでの事業に手を染めている。

この事業の成否は私などには予測もつかぬものの、イノキの来し方にあらわれたブーメランのごとき事柄が、これからのアントニオ猪木の方向性の謎解きとなっているにちがいない……私はそんなところへ自分の思いを落とし込んでいた。

 

この事業は、膨大な資金力と、それにたずさわる高レベルの人知の結集を不可欠とする宿命をはらんでいて、やがてそのどれかに綻びが生じ、プロレス業界内においてはイノキの汚名として記憶されるという側面もあった。

第一、イノキ流の壮大なリサイクルをともなうブーメランの軌跡の理解など、あまりにも壮大なロマンを共有しなければ成り立たず、やがてこの構想は実現化の途上で宙に浮いたまま、置き去りにされている。

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