源平合戦の英雄・源義経の孤立と没落は「必然」だった!?

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第18・19話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第18話「壇ノ浦で舞った男」、昨日放送の第19話「果たせぬ凱旋」をまとめて解説。さまざまな史料や学説を参照しつつ、一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至る一連の流れや、源平合戦が展開する中で源頼朝・義経兄弟の間に生まれた亀裂の理由に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第18話では平家滅亡と腰越状、第19話では源義経の挙兵失敗が描かれた。誤解とすれ違いの積み重ねによって悪化の一途をたどる源頼朝・義経兄弟の関係を、北条義時は何とか修復しようとするが、果たせなかった。歴史学の観点から第18・19話のポイントを解説する。

 

屋島の戦い

一の谷合戦後、紆余曲折を経て、源頼朝は弟の範頼を平家討伐に起用する。範頼軍は元暦元年(1184)8月8日に鎌倉を出発し、27日に京都に到着した。範頼は29日に朝廷から追討使に任命され、翌9月2日には出陣した(『吾妻鏡』『百錬抄』)。範頼の補佐役には千葉常胤・和田義盛がつき、北条義時・比企能員・三浦義澄らも参加した。鎌倉軍オールスターであり、範頼軍こそが頼朝政権の主力部隊であった。

源範頼軍の滑り出しは上々で、10月12日には安芸国(現在の広島県西部)を制圧し、論功行賞を行っている。しかし周防国(現在の山口県東部)、長門国(現在の山口県西部)と進撃を続けていくうちに補給線が延びきってしまい、食料不足に直面した。水軍力の不足も深刻で、平家の水軍基地である長門国彦島(現在の山口県下関市に所在)を攻めようにも船がない有様である。11月14日、範頼は頼朝に書状を送り、食料と船、馬の不足を訴えている。範頼によれば、食料不足により士気が低下し、従軍武士の過半は故郷に帰りたがっているという(『吾妻鏡』元暦二年正月六日条)。

この報告を受けて源頼朝は、平家水軍との短期決戦を避け、屋島を包囲して平家を降伏させるよう指示を出している。後鳥羽天皇は三種の神器なしで即位したため、正統性に傷があった。後鳥羽の正統性を万全にするには、安徳天皇が後鳥羽天皇に三種の神器を引き渡す儀式を行う必要がある。そこで頼朝は平家を降伏させることで安徳天皇と三種の神器を確保し、後白河法皇との交渉カードに用いようとしていたのである。

源範頼軍は藤戸の戦いの勝利などを経て周防に移動し、同国の武士である宇佐那木上七遠隆(うさなぎ・こうしちとおたか)から兵粮米の提供を受けた。こうして範頼は翌元暦2年正月26日に九州に向けて出港した(『吾妻鏡』)。

源範頼軍は2月1日に筑前国葦屋浦(現在の福岡県遠賀郡芦屋町など)で平家方の原田種直(たねなお)らを破った。これにより頼朝の長期戦構想が実現する目途がついたが、事態はさらに急展開する。義経の出撃である。

源義経は頼朝の指示を待たずに正月10日に京都を出発(『吉記』『百錬抄』)、1ヶ月ほど摂津国の渡辺津(現在の大阪市中心部)に滞在して、渡辺党など畿内水軍の組織化を進めた。なお渡辺津での軍議で、義経と梶原景時が論争したという、いわゆる「逆櫓(さかろ)」論争は、『平家物語』の創作と思われる。景時は範頼軍に参加していたからである。

義経軍・範頼軍進軍図〈編集部作成〉

源頼朝は義経の出陣を追認したようである。これは、義経を四国に派遣することで、平家の戦力を分散させ、範頼の負担を軽減させようとしたからだろう。いわゆる「第二戦線」の構築である。

ところが源義経は頼朝の予想を超えて、電撃的に屋島を攻略してしまう。『平家物語』や『吾妻鏡』は、義経は暴風雨の中、強引に渡海したと記す。しかし九条兼実の日記『玉葉』(元暦二年二月二十七日条・三月四日条)は、義経たちは2月16日に出航し、17日に無事に阿波国に上陸したとのみ記し、悪天候には言及していない。

『平家物語』や『吾妻鏡』は、義経の無謀と紙一重の勇猛果敢さを強調するが、義経の勝因はむしろ、渡辺津に1ヶ月逗留して水軍の編成を行うといった用意周到さにあったと考えられる。

阿波国の勝浦(現在の徳島市)に着いた義経は、現地武士の近藤親家(ちかいえ)を味方につけ、阿波・讃岐の武士たちを糾合(きゅうごう)しつつ屋島へと進撃した。こうした迅速な軍事行動は、事前準備なしには不可能である。

義経一行はたまたま勝浦に流れ着いたのではなく、あらかじめ親家と連絡をとった上で親家の拠点である勝浦に上陸したのだろう。もちろん、渡辺津滞在中に阿波・讃岐の反平家勢力とも交渉していたと思われる。

海上からの攻撃を想定していた平家軍は、源義経軍に背後を衝かれて恐慌をきたした。抗戦する選択肢もあったと思うが、2月19日、平宗盛は安徳天皇の安全を最優先し、戦うことなく海上に逃れた(『吾妻鏡』)。屋島と彦島という瀬戸内海の東西の要衝を掌握していたからこそ、平家は制海権を維持できた。屋島失陥により平家の軍事的挽回は絶望的となった。

屋島の戦い(Photo by gettyimages)

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