1992年4月25日、26歳の若さで旅立った尾崎豊さん。『I LOVE YOU』『シェリー』『15の夜』『僕が僕であるために』……30年という月日を経ても尚、どの曲も色褪せることなく歌い継がれる名曲とともに、「尾崎豊」という存在にも改めて注目が集まっています。

生前、尾崎さんともに時間を過ごした妻の繁美さんが、尾崎さんとの出来事、亡くなってからのバッシング、息子の裕哉さんのこと、そして自らの想いについて、20数年の沈黙を破り語ってくれました。

「亡くなった後のメディアからの攻撃には心身ともに深く傷つきましたが、そのことを今は恨んではいません。あの出来事も含めて、今の私があると思っています。この1年間、インスタに豊との写真をあげ、彼からもらった愛の言葉を綴っているうちに、私自身改めて、彼の愛、生きた証を再確認することができました。自分自身の新たな人生、未来への第一歩としていきたい」と繁美さん。

前編では、尾崎さんが亡くなってからアメリカに渡るまでのいきさつについて語っていただきました。後編では、アメリカに渡った後の生活と孤独の中、繁美さんと裕哉さんを支えた尾崎さんから受け取ったマインドについてお話しいただきます。

1989年秋ごろの尾崎豊さんと繁美さんと息子の裕哉さん。写真提供/尾崎繁美
-AD-

以下より、尾崎繁美さんのお話です。

息子は自ら「父親捜しの旅」を続けていた

11年間のアメリカ生活に終止符を打ち、日本に戻ることは裕哉が決めました。実は息子が14歳の頃日本に一時帰国していたとき、家族でカラオケに行ったんです。コーラスやソルフェージュ以外で、彼の歌を聴くのはそのときが初めて。

当然、英語の歌を歌うとばかり思っていたら、なんと『17歳の地図』をいきなり歌いだして……! 声がもう本当に父親そっくりで、家族みんなで驚愕しました。驚きと喜びが混じり合いながら、同時に、この声は神様からのギフトだから、「届けなきゃいけない」と感じたのを覚えています。私たち親子に、「日本に帰る」という選択肢が目の前に現れた瞬間でした。

日本では、お墓参りの際に豊の曲をかけることはありましたが、アメリカの生活では、あえて裕哉に豊のCDを聴かせたことはありませんでした。裕哉が歌手への道を選ぶよう、私の手でレールを敷くようなことはしたくなかったのです。

日本から離れ、裕哉さんと暮らしたアメリカ・ボストン。写真提供/尾崎繁美
-AD-

でも、後から聞いたら、裕哉は小さな頃から「僕のパパは歌手だった」と誇りに思い、楽曲はバイブルだったそうです。だから、尾崎豊の曲しか聴かず、発声はもちろん息継ぎの瞬間まで、誰にも話さずひとりで練習していた時期があったと。「僕、パパの歌、71曲全部歌えるよ!」って聞いたときには、親が伝えずとも、こうやって自分自身で吸収してしまうのだな、と感じました。

裕哉は小さな時から学校のポエム大会で優勝したり、感受性がとても強いところなど、豊そっくりな子供でした。かつて、豊のノートの1ページ目には、「WHAT IS LOVE」と書かれていましたが、裕哉のノートの最初に、それとまったく同じ文字を見つけたときには本当に驚きました。裕哉が尾崎豊のアルバムを聴くことを通して、“父親を探す旅”に出たことは、ごく自然な流れだったのでしょう。