2022.04.18

落とせるはずの敵機を見逃し、「日本本土初空襲」を許してしまった零戦搭乗員の「深すぎる後悔」

いまからちょうど80年前の昭和17(1942)年4月18日、日本本土上空に突如現れた16機の米軍B-25爆撃機が、低空で東京、横浜、名古屋、神戸などを爆撃して飛び去った。陸軍の双発(エンジンが二つある)爆撃機を空母から発進させるという、日本軍には真似のできない柔軟かつ大胆な発想の作戦だった。このとき、米空母接近の報を受け日本側も警戒していたが、上空哨戒に飛んだ零戦隊はこの敵機を発見しながら連絡の不行き届きで味方機と誤認し、見逃してしまう。敵機を目視しながら逃してしまった零戦搭乗員の悔恨、そしてこの空襲がのちに招いた悲劇とは――。

【前編】日本本土が初めて空襲を受けた「80年前の今日」、敵機を発見しながら逃してしまった零戦搭乗員の「悔恨と悲劇」

米空母「ホーネット」より、B-25の発艦
 

最初は味方機と間違えた

この日の午前、横須賀海軍航空隊(横空)は一応、敵襲に備えて3機の零戦を発進させている。搭乗員は樫村寛一一飛曹、五日市末治一飛曹、そして宮崎勇三飛曹。樫村一飛曹は昭和12年12月9日の南昌空襲で中華民国空軍機と空中衝突、愛機九六戦の左主翼の半分近くを失いながら生還した「片翼帰還」で知られる国民的英雄、五日市一飛曹も、技倆に並ぶ者なしと言われた空戦の名手である。宮崎三飛曹は実戦経験はまだないものの、樫村一飛曹に鍛えられ、腕を磨いている最中だった。

この3機の零戦搭乗員のうち、樫村、五日市の2名はその後戦死し、戦争を生き抜いたのは宮崎勇(のち少尉。1919-2012)だけだが、宮崎は筆者のインタビューに次のように語っている。

ドーリットル隊を空中で目視した3名の零戦搭乗員のうち、唯一戦争を生き抜いた宮崎勇少尉

「敵機が来るかもしれない、というのははっきりしていましたが、空母から発艦するわけだから、来るのは艦上機、という思い込みがあったんです。

出発する前に飛行長から、『いま、海軍機で飛んでいるのはお前たちだけだ。ただし、味方陸軍の双発戦闘機が2機、試飛行をしているから気をつけろ』と注意を受けました。

それで、高度4000メートルで哨戒中、なるほど双発機が2機、低空を飛んでいるのが見えたから、あれが陸軍機だな、と。ところが、横浜の本牧岬の高射砲陣地がそれに向かってポンポン撃ちだした。あれれ、味方機をまちがえて撃っとるぞ、と思い、基地を無線電話で呼び出してみるけど、ガーガーピーピーという雑音ばかりで何も聴こえない。当時の零戦の無線機はそんなものです。

横須賀のドックでは、艦(空母『龍鳳』に改造中の潜水母艦『大鯨(たいげい)』)に火災が発生し、黒煙が上がっているし、おかしいと思ったんですが・・・・・・」

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