2022.04.25

外国語大学 学長が警鐘を鳴らす「英語を学ぶことで失ってしまうもの」

英語以外のことをしなさい!
亀山 郁夫 プロフィール

母語の唯一性と教養の「国籍」

コロナ禍のなかにあるとはいえ、そして反グローバル化の流れが強まりつつあるとはいえ、世界経済がグローバルなレベルで機能しつづけていくことを否定することはできません。他方、究極の勝者を目指す熾烈な戦いのなかで、グローバル化は国民国家の理念の復活を促しましたが、この傾向は、ますます強化されていくことでしょう。どこの国の為政者たちも、強固なナショナリズムの涵養を国際戦略の中心に位置づけています。

世界の政治を見ながら、面白いな、と思うことがあります。英語圏以外の国の首脳は、けっして母語以外では語らないということです。世界の人々と国民の前で、その発言の一語一語に対し完全に責任を持つためには、誤解を与えかねない非母語での発言は許されないといっても過言ではありません。

より卑近な例でいうと、映画は基本的に母語で作られています。全部英語の台詞による日本映画は存在しません。かつてスピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を観たときに強い違和感をもったのは、やはりそこで使用されている言語が原因でした。ほとんどの台詞が英語によって語られるユダヤ人ゲットーの物語に、どうしてもリアリティを認めることができなかったのです。むしろ音をミュートにして、日本語の字幕のみで観るという態度のほうがどれほどよかったかしれません。思うに、私たちが経験できる他者のリアリティとしては、もはや身体のリアリティ以上に声のリアリティが重みを増しています。

人間は言語を介して存在する、という前提に立つなら、まさにゲットーや強制収容所における実存状況は、そこで語られる言語と不即不離の関係にあります。日本で、日本語でゲットーや強制収容所をめぐる映画を撮ることはできません。演劇というジャンルの可能性が浮上するのは、まさにこの地点です。

文化はそれぞれの国の言語と密接に結びついています。そしてそれぞれの文化の積み重ねによって築き上げられた教養というものがあります。つまり、教養には国籍があるのです。

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