新型ウイルスの集団感染が起きた客船に乗り込んだ、医師の阿南英明氏。豪華客船で見た現実とは…。
華やかな豪華客船の船底には…
乗員の過酷な環境は、支援に入ったDMAT隊員らに強い印象を残している。
阿南英明はこの日午後、神奈川県庁の持ち場を一時的に離れ、ダイヤモンド・プリンセスを訪れている。船内で支援活動を指揮していたDMAT事務局次長の近藤久禎と打ち合わせしたかったのと、現場の様子を見ておきたかったからだ。そのとき遭遇した船底の現実を、阿南はのちに繰り返し語ることになる。

昼過ぎ、ふだん着のコートをひっかけて、防護具といえばサージカルマスクを着けただけの姿で乗船し、5階のメイン・ダイニングに入った阿南は、昼食に乗員がつくった料理を食べながら、近藤と話し合った。支援者の食事は乗客と同様のものが船から提供されている。感染防止のために用心して手を付けない者もいたが、多くの関係者が口にしていた。話題は、下船させる乗客乗員の順位を決めるカテゴリー分けの確認が主体だった。
ひょんなことから船底を見に行くことになったのは、そのあとである。
「阿南先生、クルーがどんな状況に置かれているか、見てみたいと思いませんか」
船内にいたある人物に声をかけられ、同行することにしたのである。
当時、連日ダイヤモンド・プリンセスの話題を採り上げていたメディアも、視点はほとんど乗客にあった。やはり感染者が出ているであろう乗員への関心は、国内ではそう高くなかった。
クルーと呼ばれる最下層の乗員がすごす海面より下の部屋へ、先導されてしめっぽい階段を下りた阿南は、道に迷って通路を行きつ戻りつしながら、迷路のような船底の別世界にたどり着いた。
阿南が立っていたのは、豪華客船で働く者たちのヒエラルキーが厳然と感じられる場所だった。それは、検体採取のために船底を訪れたDMATの島田二郎が目のあたりにしたことと共通していた。
阿南は、率直に感想を語った。
「船長さんとか、欧米出身のハイソな人たちは、ずっと上のほうで暮らしていて、船底なんかきっと行ったことないんじゃないかと思う。サービングのような仕事をしている人たちは、東南アジアやインドなんかの出身者ばかりなんですよね」
そして、こうも語っている。
「でも、あの人たちは生活するためにここに来ていて、実はクルーズ船で仕事できることが、すごくハッピーなんですよ」
大海原をゆったりとクルージングしながら働ける、あこがれの豪華客船。彼ら彼女らにとって、クルーとして採用されるのは、とても幸運なことなのだという。稼いだ給料で母国に待つ家族を養えるからでもある。
クルーズ船の旅を、乗客として経験した人たちは誰もが、クルーたちの朗らかな笑顔と人なつっこいサービスぶりについて思い出を語るが、それは職業上のものというよりは、心底楽しんで働いているからではないか。
阿南が船底で出会ったクルーに尋ねたところ、乗船期間は10ヵ月だという。その間、船からはほとんど下りられない。休憩時間もあるにはあるが、船底の自室で過ごすことになる。それでもニコニコ笑顔で立ち働いてきたクルーたち―。
阿南は、彼ら彼女らが気の毒でならなくなった。