2022.03.31

真珠湾攻撃にも参加した“歴戦の名パイロット”が、戦後「幼稚園の園長」になったワケ

零戦搭乗員として、真珠湾作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル攻防戦など最前線で戦い続け、何度も死地をくぐり抜けてきた原田要さん。戦後は平和を願い、幼児教育に生涯を捧げてきた。

戦後50年を迎える頃まで、戦時中のことは一切語ることはなかったが、あることがきっかけで、戦場の過酷さ、悲惨さを語り残すことを決意する。

それは、湾岸戦争での、まるでヴァーチャルゲームのような映像と、それに対する若者たちのあまりに軽すぎる反応を見聞きしたことだった。

<【前編】歴戦の名パイロットは、なぜ沈黙を破って戦場を語り始めたのか>に引き続き、真珠湾攻撃に参加し、機動部隊の上空直衛の任務にあたった原田さんのその後の人生について語る。

「日本は負けた」と思い、目の前が真っ暗に

昭和16年9月、原田さんに空母「蒼龍」への転勤命令がくだる。急いで家を片付け、精さんを長野に帰して、勇躍乗艦した原田さんは、ここで初めて零戦に乗ることになった。12月8日、真珠湾攻撃。原田さんに与えられた任務は、攻撃隊の掩護ではなく、機動部隊の上空直衛だった。

 

「この日をもって、日本は悲惨な道をたどることになるわけですが、戦場にいる私たちには、日本がこの先どうなるんだろう、などと考える余裕もなく、ただ、国や家族のために戦うのだという気持ちでいっぱいでした」

「蒼龍」の転戦にともない、原田さんはウェーク島攻略作戦、オーストラリア北西部のダーウィン空襲、続いて昭和17年4月5日、セイロン島コロンボ港空襲に参加。コロンボ上空ではイギリス軍戦闘機と空戦、5機(うち不確実2機)を撃墜している。

「敵の飛行機は逃げ足が速くて、格闘戦どころではありません。そういうときは、逃げていく先に7ミリ7(7.7ミリ機銃)を撃ちこんでやるんです。そしたら、敵機は曳痕弾に驚いて回避する。少し距離が縮まる。それを繰り返して蛇行運動させ、近接して最後に20ミリ機銃で墜とすんですがね。相手の顔なんか見えませんよ。実は、私は射撃は得意じゃなかった。でも、実戦になると、射撃のうまい、へたはあまり関係なく、気の弱いほうが負けです。先に避けたほうがやられるんです」

ところが――。

「撃墜を重ねて、つい深追いしてしまい、あらかじめ決められた集合点に戻ったときにはもう、味方機は引き上げたあとでした。さあ困った。単機での洋上航法にも自信がないし、母艦に還る燃料があるかどうかもわからない。仕方がないから敵の飛行場に戻って自爆しようかと思っていたら、零戦が1機、私の横にスーッと寄ってきて、見れば名前も知らない若い搭乗員で、指を3本立てて撃墜数を示しながら、ニコニコと編隊を組んできました。

私は、この搭乗員を死なせてはかわいそうだと思って、よし、それならば、と、自分なりの航法で帰ってみたら、奇跡的に母艦にたどり着いたんです。その若い搭乗員は、母艦が見えると喜んじゃって、一目散に自分の艦に帰っていきましたよ」

そして昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦。この日、原田さんは、上空哨戒の戦闘機小隊長(3機編隊の長)として4度にわたって発艦した。

「2度めに発艦したとき、水平線すれすれに敵機の大群が見えました。これは雷撃機だと直感、1発も命中させてなるものかと、戦闘機は一斉にそれに襲いかかりました。当時のわれわれの常識では、艦にとっていちばん怖いのは魚雷で、ふつう、250キロ爆弾ぐらいで軍艦が沈むことはない、ということになっていましたから、急降下爆撃機のことはまったく念頭にありませんでした」

戦闘機隊は来襲した敵雷撃機のことごとくを撃墜、わずかに放たれた魚雷も巧みな操艦により回避される。弾丸を撃ちつくした原田さんは、敵襲の合間を見て着艦。一服する間もなく、またも敵襲で予備機に乗り換えて発艦。敵はふたたび雷撃機、原田さんは列機(僚機)を引き連れて、敵機の後上方から反復攻撃をかける。

「そのとき、三番機の長澤源蔵君が、私の目の前で敵雷撃機の旋回銃の機銃弾を浴び、火だるまとなって墜落しました。あれは私の誘導が悪かった。私が1機を撃墜して次の敵機を狙うときに、スローロールを打って連続攻撃をかけようとして、二番機、三番機もあとにならってきたんですが、それが敵に大きく背中を見せる形になってしまった。

敵に腹を見せるとか、背中を見せるとか、いちばん危険なことなのに、失敗でした。それで、敵が私を狙って撃った機銃弾が、同じコースを遅れて入った三番機に命中したんです。……本当に、列機がやられるのを見るほど、つらいものはありません」

長澤機の最期を見届けた原田さんが、気を取り直して周囲を見渡すと、そこには信じられない光景が広がっていた。

つい先ほどまで威容を誇っていた「加賀」「赤城」「蒼龍」の3隻の空母から空高く立ち上る火柱。零戦隊が海面すれすれの敵雷撃機を攻撃している間に、上空から襲ってきた急降下爆撃機の投下した爆弾が、相次いで命中したのだ。

原田さんは、ただ1隻、無傷で残った「飛龍」に着艦した。ほどなく、整備のできた零戦で、またもただちに発艦するよう命じられた。

「飛行機が艦橋よりずっと前にあるのに驚きました。滑走距離はぎりぎりで、はたして発艦できるか不安でしたが、整備員に尾翼をしっかり押さえさせてエンジンをいっぱいにふかし、離艦すると同時に脚上げ操作をしました。たちまち機は沈み込み、海面すれすれでやっと浮力がついて上昇を始めました」

早く上昇して敵機を墜とさなければ、と気は焦るばかり。高度が500メートルに達した頃、ふと後ろを振り返ると、「飛龍」も被弾、火柱が上がるのが見えた。

昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で炎上する空母「飛龍」。原田さんは「飛龍」から発艦した最後の搭乗員だった

「そのとき私は、『日本は負けた』と思って、目の前が真暗になりました。ともあれ直衛の任務を果たそうと、次々に飛来する敵機を攻撃すること約2時間、ついに自機も被弾、燃料もなくなって、夕闇せまる海面に不時着水しました」

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