薩摩・鬼界ケ島沖に出現した新島——暮らしのすぐ傍らで起きた噴火の物語

過去の海域噴火に目を向けることが必要

島はどのようにできるのか【第4回】

いつも眺めている身近な海で火山噴火がはじまり、目前で島が成長していく様子を想像できるだろうか?——

本連載ではこれまで西之島や福徳岡ノ場など近年の噴火を例に火山島誕生や軽石漂流などの話題を取り上げてきたが、いずれも絶海の孤島で起きた噴火であるため、身近で同様の現象が発生した場合に何が起こるのか実感を持つことは難しいかもしれない。しかし過去を振り返ると人間社会のすぐ近くで海底噴火が起き、周囲にさまざまな影響を及ぼした事例を見出すことができる。

今回はそのような例の1つとして、新たな火山島を形成した昭和硫黄島の海底噴火を取り上げる。戦前の激動の時代の中起きた噴火だが、当時このできごとを克明に記録した人々がいた。その記録と筆者自身が行った上陸調査をもとにこの噴火で何が起きたのかを探っていきたい。

平安末より噴煙を上げるカルデラ火山

九州の薩摩半島南方50kmにある鹿児島県三島村の硫黄島(薩摩硫黄島)。先史時代より大噴火を繰り返している、海底カルデラ「鬼界(きかい)カルデラ」の北側を構成しているのが、この薩摩硫黄島と隣の竹島で、海面上に飛びだした火山島の頂きとなる。

話題のテレビ・ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代、平安末期におこった平家打倒の未遂クーデターである鹿ヶ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀。1177年)において、首謀者である村上源氏出身の僧・俊寛らが流された鬼界ヶ島は、この薩摩硫黄島と考えられている。

俊寛らが配流された当時から「主峰は噴煙をあげ、海は硫黄に染まる」と言われ、島内にそびえる硫黄岳は常時観測火山であり、2022年3月の時点で噴火警戒レベル2とされている。

【地図】薩摩硫黄島の位置薩摩硫黄島の位置と、鬼界カルデラの地形鳥瞰図。カルデラの外輪である薩摩硫黄島の東にあるのが、本稿で取り上げる昭和硫黄島。(拡大地図は国土地理院をもとに作成、地形鳥瞰図は著者による。地形鳥瞰図の拡大表示はこちら

現在百数十人となった人口だが、かつては硫黄採掘が盛んで、最盛時には1400人ほどがこの島に住んでいた。

この薩摩硫黄島のかたわらに、海底火山活動の末、ある日、新島が突如出現したのである。

1934年(昭和9年)の噴火、そのあらまし

1934年9月も半ばに差し掛かる頃、この薩摩硫黄島付近で有感地震が多発し、島民は眠れぬ日々を過ごしていた。地震は鳴動を伴い、島内では崖崩れが発生するなどの被害も出たが、震源が硫黄島付近であること以外に情報はなく、原因がわからぬまま時が過ぎていった。

9月14日から17日にかけて地震活動が非常に激しくなったことから、18日午前2時には600名あまりの島民が複数の救助船に分乗し、翌朝まで一時的に島外に避難する事態にまで発展した。19日の鹿児島朝日新聞(現在の南日本新聞)には「硫黄島住民全部引揚願出 縣も處置に迷ふ」とあり、行政も困惑していた様子が読み取れる。

当初は薩摩硫黄島の東側にそびえ立ち常時活発に噴煙を上げている硫黄岳の噴火が懸念された。しかし硫黄島東方で海水の沸騰や懸濁、そして大量の軽石が浮遊している様子が確認されたことから、海底噴火が起きているらしいことがしだいに明らかになった。

9月20日には海上から激しく白煙が上がっているとの報が伝えられると、一部の島民は津波を恐れて、強い風雨にもかかわらず西側の台地上に避難し、夜を徹して状況を見守った。ちなみにこの風雨は翌21日に京阪神地方を中心に死者行方不明者約3000人の大災害を引き起こした室戸台風によるもので、奇しくもこの時火山噴火と台風が重なったのである。

9月23日鹿児島朝日新聞は「黒煙天に岩石を噴き 海中に火柱が立つ」、「海底噴火のため硫黄島は危険を免る 物凄い附近の光景」といった見出しで噴火の様子を伝えた。18日以降、大量の軽石の流出と同期するように有感地震の数は急速に減少していった。また硫黄岳から離れた場所での海底噴火であったことから、「但し 硫黄島は人心安定」という記述も見られ島民はしだいに平静を取り戻していったようである。

【図】1934年の噴火と新島形成の過程1934年の噴火と新島形成の過程の概略図。田中舘秀三(1935,1939)の図を参考に作図

10月になると噴火地点での噴煙の発生や軽石の浮遊がより顕著になり、薩摩硫黄島の東岸や主要港である長浜港に大量の軽石が押し寄せ、島民は船を出すこともままならなくなった。降灰や火山ガスにより農作物は枯れ、生活に大きな支障をきたすようにもなっていた。

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