その中から現代ビジネスでは、トレーニングが苦行でなく、ようやく楽しめるものが見つかった話、都心の名ホテルにまた泊まりたくなったわけ、一生の趣味になった俳句の大きな魅力、78歳の料理研究家から学んだことなどなど、読んで楽しく参考にもなるエッセイを連載で紹介します。
無駄な時間を許せない効率主義な私が
40代半ばで俳句に出合い、50代で吟行句会に参加しはじめ、俳句番組の進行役をする機会にも恵まれた。
番組では、前もって題が出される。歳時記に載っている季語から、先生が選ぶ。いちど聞くと、収録までのあいだ常にその題が頭のどこかに留まっている。季語の題とは別に、先生が決めるテーマに従い、進行役の私も俳句を作っていくときもある。

俳句を考えていることが、50代から急に多くなった。
俳句に親しみ、いちばんに感じるのが「無駄なことってないのだな、どうでもよさそうなものでも、みんな何かを宿しているのだな」と。
別に「起きることはすべてあなたにとって意味があります」みたいなスピリチュアルなことを言うのではない。性急に意味を求めるのは、俳句的態度でもないと思う。
突然抽象的なことを言い出しわけがわからないと思うので、体験に即して述べていく。
あるときのテーマは「日常の移動を詠む」だった。通勤や散歩、買い物などふだんの移動の最中に、ここを詠みたいと思った瞬間を写真に撮り、併せて句も作っていく。
告げられたとき私は内心「困ったことになった」。家でエッセイを書くのが中心の私は、通勤がない。よく行く仕事先への移動がそれに代わるが、そこはかつて十数年間通院した経路でもある。ホームに降りたら考えごとをしながらでも、足はひとりでに乗り換え階段へと向かっている。目新しいものなど何もない。
そもそも私は効率主義というか、時間貧乏な人間である。駅から自宅までの十数分さえ焦れったく、途中をショートカットしたいほど。日常に詩をみいだすなんて、時間と気持ちにゆとりのある人ができることだと思っていた。
ある日の仕事帰りも、乗換駅の階段を降りると、電車がホームを出るところ。よりによって快速だ。あれに乗れたら10分は早く家に着いたのに。運の悪さに溜め息をつき、走り去る列車を見送った。
夏の、まだラッシュアワーには少し間のある時間帯。ホームの端からいく筋ものレールが伸びて、はるか先で夕陽に包まれ、溶け合うように光っている。
五七五がふとわいた。
分かれては交はるレール大夕焼
逃げないように口の中で反芻し、立ったまま鞄からペンをとり出す。次の列車までの時間は、不本意な待ち時間から異なる性質のものに変わっていた。