2022.03.30

分子の手紙とシャボン玉の封筒

30年後のナノワールド物語(第3話)
藤崎 慎吾 プロフィール

やがて、2つの心は結びつく

いや、気のせいと言われればそれまでですが、まるで犬や猫でも飼っているみたいで本当にかわいいんですよ。私らは、すっかり有頂天になってしまいました。それで大失敗をしたんです。ええ、娘のことです。

自分たちが楽しいもんだから、ぜひ彼女にもと思いましてね。娘はさほど園芸に興味はなかったんですが、緑の指をプレゼントしました。すると予想以上にのめりこんでしまったんです。もともと内気というか引っこみ思案な性格だったんですが、ますます人づき合いが悪くなりました。そして庭の植物ばかりを相手にし始めた。学校にも、あまり行かなくなる始末です。

これは困ったなと思っているうちに……実は以前、庭のあちらの隅にヤナギの木があったんです。カエデやガマズミより先に分子ロボットを注入して、エクソソームも出せるようにしてありました。そのヤナギの木と娘が、とりわけ仲良くなってしまいましてね。それもペットを可愛がるというよりは、対当に惹かれ合っているようでした。もう何というか、寄り添って片時も離れないという雰囲気なんですよ。

驚いたし、慌てましたが、自分たちが緑の指を与えた手前、やめろとも言えない。もちろん誰に迷惑をかけているわけでもないし、健康に害があるとも考えていなかったので、仕方なく様子を見ていました。

するとある晩、夜更けにトイレに起きて、ふと窓から庭を見ましたら、肌もあらわな薄着の娘が、ヤナギの太枝に腰かけているじゃないですか。まるで抱かれているみたいでした。娘は娘で、うっとりした顔つきで幹にもたれかかっている。とても近所に見せられた姿じゃない。

私はすっかり動転しましてね。すぐ庭に出ていって彼女を引きずり降ろしました。そして翌日、家内が娘を外へ連れだしたすきに、ヤナギを切り倒したんです。

乱暴なことをしたもんだと、今では思います。おかげで娘は一時、半狂乱になりました。しばらくして落ち着いてからも、私とは一切、口をきいてくれません。家内の発案で、切り倒したヤナギから赤ん坊の木彫り人形をつくって、なだめようともしてみました。それで態度は多少やわらいだものの、ご覧のような有様です。まだ癒えない悲しみと、私への許しがたい気持ちを訴えようとしているんじゃないでしょうか。

それにしても不思議です。ヤナギは娘に何をささやいていたのでしょう。そんなことを考えながら、あれこれ調べていると、日本では昔から人間と木との悲恋物語がよく語られていたようです。あなたが以前お住まいだったY市にも「おりゅう柳」という伝説があります。ご存知でしたか?

ええ、そうです。題名の通り「おりゅう」という娘とヤナギの大木が惹かれ合う話です。そのヤナギは京都の三十三間堂の棟木にするため、やっぱり切り倒されてしまいます。権力に引き裂かれたんですね。これに似た話やバリエーションは、全国に伝わっています。F県F市の「王老杉」伝説なんかも、木はスギですが有名です。昔の人にとっては植物も人間と同じで、心の通じ合う相手だったんじゃないでしょうか。

【写真】樹木との悲恋photo by gettyimages

あっ、そろそろ用事がある? これは長々とお引き留めして、申し訳ありませんでした。もし、よろしかったら、またいつでも立ち寄ってください。次はお昼でもご一緒しましょう。できれば、いずれ娘の話し相手になっていただけると、ありがたいんですがね。まあ勝手なお願いです。

えっ、なんだか指先が痒くなってきた? ははは。私の話で、そんな気分になりましたか。……いや、あるいは家内がまちがえて、私に飲ませるつもりだったお茶を、あなたの前に置いてしまったかもしれません。もし、そうだったら、ごめんなさい。でも明日になったら、ちょっとその指で、あなたの庭先の木や草を撫でてみたらどうでしょう。全く新しい世界が、開けるかもしれませんよ。

第10回は5月31日公開予定です

このコンテンツは、科研費学術変革領域研究(A) 分子サイバネティクスhttps://molcyber.org)の支援を受け、ジャーナリストが研究者に長期取材する「ジャーナリスト・イン・レジデンス(JIR)」の一環として制作されたものです。

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