2022.03.30

分子の手紙とシャボン玉の封筒

30年後のナノワールド物語(第3話)
藤崎 慎吾 プロフィール

メッセージを受け取れる「緑の指」

ああ、家内が来ました。お茶とケーキを持ってきたようです。どうぞ、召し上がってください。お口に合うかどうか、わかりませんが、自家製です。トッピングのブルーベリーとラズベリーは、さっき菜園で取ってきたものです。

【写真】お茶が入ったphoto by gettyimages

ところで、あなたはご近所の方ですか。あまりお見かけしなかったと思うが……ああ最近、引っ越されてきた。そうですか。どちらから? ほう、Y市、H県の。知ってますよ。これは、ちょっとしたご縁だな。失礼ですが、おいくつですか……なるほど、では娘とほぼ同世代だ。2つ違いですかね。あんな状態でなけりゃ、お話し相手になっていただきたいところですがねえ……。

ところで「緑の指」って、ご存知ですか。知らない。そうですよね。どうも英語では園芸が得意な人のことを「緑の指を持っている」って言うらしいんです。そこから来たんでしょうが、最近は植物の声を聞ける指を持てるようになってきましてね。それを農家や園芸家の間では「緑の指」と呼んでいます。

実は、私も持っています。残念ながら園芸の才はないようなんで、それを補えないかと思いましてね。ご覧の通り、実際に緑色をしているわけじゃありませんが、この指先に特殊なセンサーが組みこまれています。

いや、金属やシリコンのデバイスじゃなくてね。やっぱりタンパク質や核酸を、脂質膜で包んだような形になっています。それが細胞と細胞の間に混じっている感じです。「分子ロボット」と呼ばれたりもします。ええ、生体分子でできてますし、私自身の遺伝子をいじったりするわけじゃないですから、わりと気楽に導入できます。

この指に植物の出す匂いとか化学物質が触れると、おおむねその意味がわかったりするんですよ。分子ロボットに組みこまれた一種の人工知能が、人間にもわかるように翻訳してくれるんですね。それが私の神経細胞に伝えられる。

一般の人にはまだ馴染みがないかもしれませんが、とくに農家の方々は、ずいぶん助かっているでしょう。なにせ作物のほうから、自分の状態を教えてくれるんです。

暑いとか寒いとか、水や肥料が多いとか少ないとか、日当たりが足りないとか、まだ熟してないとか、虫に食われてるとか、雑草にいじめられてるとか、病気になりかけてるとか、疲れてきたから実をまびいてくれとか……。

もちろん経験豊富な農家さんだったら、そんな指がなくても作物を見ればわかるかもしれませんが、そうでない人もいますからね。それに経験豊富だったとしても、まちがうことはあるだろうし、このごろは温暖化のせいで気候も不安定ですから、以前はなかった事態だって起きうるでしょう。そういう時の対策には、作物の声を聞くのが手っ取り早いはずです。

植物のほうを改良すれば、農業に限らず応用は広がります。「炭鉱のカナリヤ」じゃありませんが、空気中に何か有害なガスや汚染物質が流れてきたとか、病原菌やウイルスが増えてきたっていうのを感知して、匂いで知らせてくれる植物は、すでに開発が進んでいます。土壌汚染を警告してくれる草などは、もう実用化されてますね。

まあ、そういった技術をアマチュアの園芸家が使うのは、ちょっと贅沢かもしれません。でも便利は便利です。こないだもヒメシャラにチャドクガの幼虫がついてたのを、すぐに知らせてもらえました。大発生すると面倒ですからね。早期発見ができるのは、非常にありがたい。それに楽しいんですよ。

これは人それぞれの感じかたにもよるんですが、植物の気分がわかるんですね。ははは、胡散臭いと思われたでしょう。いや、私もこの指を手に入れるまでは、そう思ってましたから無理もないです。今でも気のせいって言えば、気のせいかもしれないとは思います。ただ少なくとも植物の生理的な快・不快はわかります。それが特定の人に触れられた時にも、出てくることがあるんですよ。

例えば、そこにシュウメイギクって花が植わってるんですが、これは私がずっとかわいがってましてね。だから私が触ると、とても気持ちよさそうな匂いを出します。しかし家内が触ると、何も反応しません。一方で、あっちのイカリソウは家内がいつも世話をしてまして、彼女が触るといい感じの匂いを出すんですが、私が触ると、むしろ鬱陶しそうな匂いを出してきます。

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