2022.02.27

ヒトラーの要望で日仏を往復した「潜水艦乗組員」を待ち受けた“過酷な運命”

2ヵ月間無寄港、海底6万3千キロの旅
第二次世界大戦下、ヨーロッパで激戦が続いていた昭和18(1943)年の初秋、フランス・パリの街を、バスを連ねて観光する日本人の一群がいた。遺された写真を見ると、ほぼ全員が日本海軍の紺の軍服姿である。この光景を見て、ドイツ占領下のパリでは、日本が援軍を送り込んできたのだと、眉をひそめて噂する人たちもいたという。
この日本海軍の将兵は、どこから、なんの目的でやってきたのか。そして、その後、彼らはどうなったのか――。
<【前編】ドイツ占領下のパリを観光した「日本海軍の軍人たち」…過酷な旅を経て、彼らがやってきた理由とは>に引き続き、後編となる本稿では、フランスまでたどり着いた潜水艦乗組員を待ち受けている過酷な運命について語る。

ドイツの潜水艦との会合が実現

7月24日、初めてドイツ側からの無線連絡が入った。さらに29日、駐独武官からの電報で、目的地が、安全上の見地から、前回、伊三十潜が入港したロリアン軍港ではなく、同じくビスケー湾を望む、ブルターニュ半島尖端のブレスト軍港に変更となったことが伝えられた。同時に、最新式の電波探知機を携行するドイツ潜水艦とアゾレス諸島西方海面で会合させるから、赤道を通過するとき、会合予定日を報告するよう求めてきた。

「伊八潜はそれまで、厳重な無線封止を行っていましたが、指示に従って無電を発進したところ、さっそく、それを傍受したと思われる敵の飛行機が飛んできた。電波を出すのは、かくも危険なことでした」

ドイツの潜水艦と会合したのは8月20日のことである。ペナン出港以来2ヵ月近く、陸地を見ない航海だったが、天測航法だけでみごと地球上の一点にたどり着いたのだ。

ドイツ側の連絡将校・ヤーン少尉の指揮下、派遣されてきた工作兵の作業で、最新式電波探知機が手際よく司令塔に取りつけられた。

日本で積んできた電波探知機が、大きな扇風機状のアンテナを手動で回す方式で、取り扱いが不便な上にあまり役に立たないものだったのに対し、ドイツ製のそれは、鉛筆ほどの太さの、真鍮製の2本の棒でできた簡単な構造で、大きさは数十分の一しかない。コンパクトで手間もかからず、受信波の線像も、日本製とは比較にならないほど鮮明だった。伊八潜では、日本海軍の恥になることを恐れて、呉海軍工廠製の電波探知機を分解し、艦内の奥底に隠した。

「8月27日、ポルトガルの突端の灯台の光芒が見えてきました。いよいよ目前にヨーロッパ大陸があるということ、それを自分の目で確かめたという感激は、いまも忘れられません。敵の電探(レーダー)に対して、一般漁船に紛れたほうが安全だからと、あえて陸岸近くを通りましたが、トロール船の漁網に引っかからないかが心配でした」
 
と、桑島さんは回想する。

 

途中、潜行中にイギリス軍の威嚇の爆雷の音を聞いたり、夜間、浮上すると、おびただしい数の夜光虫が艦の形をくっきりと浮かび上がらせて、ひやりとする場面もあったが、8月30日午前、伊八潜はドイツ海軍の水雷艇3隻と合流し、それらに護衛される形で、翌31日早朝、ブレストに入港した。

ブレストはイギリスから近く、湾口には絶えず英軍機が機雷を撒いていて、この機雷原を安全に航行するため、数隻の機雷原突破船が配備されていた。伊八潜が湾口に近づくと、3隻の機雷原突破船が先導し、さらに後方にも3隻がつくものものしさだった。港内には多くの防塞気球が上げられ、空襲の烈しさがうかがえる。

ドイツ海軍の機雷原突破船に護衛されてブレストに入港する伊八潜
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