「なににもならなくていいよ、おいで」——内藤礼の言葉と宗教性

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第五信・A
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について、書簡を交わす本連載。9回目に当たる今回は、釈氏が「読む」ことの宗教性に思索をめぐらせます。

第一信・Aはこちら

「読む」の宗教性

第五信は、若松さんのご提案によりまして「読む」がテーマです。

これは困りました。「読む」という行為の宗教性については、以前から若松さんから教えてほしいと思っていたところなんです。私は、「読む」の宗教性となると、どうしても「読誦」や「詠む」の方に傾斜してしまいます。そもそも、「読む」よりも「語り(を聞く)」の方が宗教性のリアリティを感じるタイプなのです。

そんなわけで、私の方で大雑把な雑感による前座を務めさせていただきますので、ぜひ[第五信・B]で「読む」の宗教性についてご教示ください。楽しみにしております。

釈徹宗氏

ルールのわからない世界に投げ出された感覚

私自身の「読む」体験のお話から始めますと、一番古い「読んだ」記憶は、鉄腕アトムの絵本です。自分の記憶では2~3歳の頃(「鉄腕アトム」はちょうど私が2歳の頃にテレビアニメが始まった)なのですが、もしかしたらもう少し上だったのかもしれません。絵本でしたが、自分としては「読んだ」という意識があるんですよ。なぜこの記憶が鮮明なのかと言えば、自分が物語の中に入り込んだような気持ちになったからです。文字を目で追ううちに、周囲の世界が希薄になって自分と本だけがそこに存在しているみたいな感じとなりました。そんなわけでよく覚えているんです。

 

今でも、何かを読み始めると、まず「ルールのわからない世界に被投された」という感覚になります。時には「その世界に生まれる」といった気分になることもあります。読むことで生起するこの感覚は、多くの人が経験していると思います。虚実の境界を行き来するわけですから、ちょっと宗教的であると言えるかもしれません。

誰かが書いた文章を読むことは、読み手による書き手への追体験であるわけですが、もちろんそれにとどまりません。時に「なぜオレのことが書いてあるんだ」「私のために書かれたものと出遇った」といった事態も起こります。これも、他者と自己の境界を超えたある種の宗教的体験だと言えるでしょう。「読む」という宗教的体験は、自分の思いを見事に言語化していた文章と出遇った時に起こる場合があります。さらにもうひとつ、自分にはなかったものに出遇い、自分の中から新たにそれが立ち上がる場合もあって、それもある種の宗教体験でしょう。ちなみに他力念仏って後者のタイプなんですよ。「無根の信」などと言いまして、自分の中に無いのに、念仏がやってきて信心の花が咲くんです。

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