アルツハイマーを発症した元・東大教授が、言葉を失いつつも講演を続けた理由

夫婦が直面した差別と受容
59歳のとき「若年性アルツハイマー病」で東京大学を辞した元教授・若井晋。その後、彼は認知症の当事者として講演を行うという、新たな生きがいに恵まれた。しかし症状の悪化と身体の衰えが、彼の残された力を奪っていく。晴れ舞台から遠ざかり、日常に戻りゆくなかで、彼が直面した困難とは? 妻・若井克子の近刊『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社)よりお届けする。

ともに歩むことの難しさ

晋がアルツハイマー病と診断されてから、およそ5年が過ぎたことから、お手洗いの失敗も起こるようになりました。ある講演の帰り、ふと気づくと、彼のズボンの前がぐっしょりと濡れていたこともあります。

最初に尿意を感じてから我慢できなくなるまでには、相応の時間があるものでしょう。ところが晋は、どうも尿意を感じにくくなっているようでした。気づいたときには「出る直前」になっている――そんな感じらしいのです。

「わからない」

本人にそう言われたこともあります。家の中にいても、なかなかトイレにたどりつけなくなっていました。

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うまくできなかったとき、彼はいつも、申し訳なさそうに立ち尽くしていました。

寒い時期に失敗が続くと、風邪をひくかもしれない。そう考えた私は、思い切って彼に紙パンツをすすめます。拒否されるものとばかり思っていたのですが、むしろ喜んで、素直にはいていたのでこちらが驚いてしまいました。

〈もう失敗しなくてすむ〉

そんな安心感があったのでしょうか。

晋が講演や取材を通じて注目を集めるようになったこと、それ自体は、悪いことではなかったはず、でした。

しかし、物事にいい面があれば、悪い面も必ずついてくるようです。

講演活動の光と影

2010年10月のことだったでしょうか。ひとりで散歩に出かけた晋が、肩を落として帰ってきました。

「どうしたの?」

声をかけると、なんでも小学校帰りの子どもたちに「バカ」と言われたそうです。

子ども好きな晋は、散歩に出かけると、よく、

「元気かい?」

「歳いくつ?」

と声をかけたりしていました。きっと昔、まだ現役の医師だったころ、診察で子どもにそう語りかけていたのでしょう。

 

ここからは私の推測ですが、なれなれしく話しかける様子が、子どもには奇異に映ったのではないでしょうか。

その年の8月、晋は縁あってNHK「おはよう日本」に出演していました。認知症の当事者として短いコメントが紹介されただけでしたが、それで近所に顔を知られるようになったことも影響していたはずです。

いずれにせよ、本人は相当ショックだったようで、以来、道端で子どもを見かけると避けるようになってしまいました。

こうした出来事や晋の衰えもあり、私はだんだん、講演に消極的な気持ちになっていきました。

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