失語の症状で言葉を失いゆくなか、若井は講演やインタビューで、自らの率直な気持ちを語ってきた。彼はなぜ、そんな心境に達することができたのか。妻・若井克子がその様子を備(つぶさ)に記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(講談社)からお届けする。
【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」
【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実
【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩
【第4回】失意の元・東大教授は、なぜ「若年性アルツハイマー」を公表したのか?
【第5回】「ぼくは、エイリアン」54歳で若年性アルツハイマーになった東大教授が見た世界
「人の価値」について語る
「『生きる』ことを考える――若年性アルツハイマー病と共に生きて――」
そんな演題が掲げられた私たちの2度目の講演は、都村先生の見事なリードでスムーズに進み、ついに終盤にさしかかりました。
「これ(アルツハイマー病)だけはいやだ」という言葉にせよ、エイリアンという言葉にせよ、まさしく病を得た当事者である晋にしか言えないことだったと思います。
うまく波に乗れたのか、会場からの質疑にも、晋はうまく答えていました。たとえばある参加者からは、
「人の価値についてどう思いますか」
と、こんな質問が。とっさには答えにくい問いですが、晋は動じるふうもなく、こう応じたのです。
「人生で一番大切なことは何か、ということが分からない人、分かる人、いろいろあると思うんです。その中で一人一人が自分の生き様に合わせて絶えず歩み続ける。そういう中で私も生きてゆきたい。これからも、この後も生きていきたいなと思います」

神戸講演は成功に終わりました。
晋がすっかりリラックスした様子で笑い、語り、会場になじんでいたのが何より印象的でした。私自身、彼につられて笑ってしまうことがあったほどです。
リラックス……と言うと、いかにも軽く聞こえることでしょう。しかし、このリラックスこそが大事なのだと痛感しました。
思えば横浜講演のときは、講演自体は失敗でしたが、その後ひらかれた立食形式の懇親会での晋の様子は、まったく異なっていたのです。どこで聞きつけたのか、国際地域保健学教室の秘書さんと学生数人が参加していて、
「先生!」
こう声をかけてくださったのですが、その瞬間、晋の顔がパッと明るくなったのがわかりました。そのあとは、わりと普通に談笑していたのです。
打ち解けた雰囲気のなかであれば、彼はまだまだ話すことができる……。神戸講演では、都村先生の配慮のおかげで、晋は壇上にいながらリラックスできたのかもしれません。