2022.02.26

「59機」の“B-29”を相手に、撃墜できたのはわずか「1機」…航空隊に向けられた“市民の怒り”

神立 尚紀 プロフィール

飛来したのは59機に対し、撃墜できたのわずか…

大村基地が、初めてB-29による本格的な空襲を受けたのは昭和19年10月25日のことである。この日、支那派遣軍からの情報で九州への空襲を察知した三五二空は、同じ基地にいる大村海軍航空隊の零戦と合わせて零戦57機、雷電8機、月光6機の計71機を邀撃に発進させたが、高度7000~8000メートルの高高度で侵入する敵機に対し、エンジン不調(5機)や低温による機銃の凍結(27機)が続出し、敵機の速度が推定270ノット(時速約500キロ)と速かったこともあって、有効な攻撃ができないままに爆撃を許してしまう。

大村基地で、出撃直前の三五二空搭乗員たち

大村上空は厚い雲に覆われていたが、B-29が投下した爆弾は、主に大村基地と隣接する第二十一海軍航空廠(航空機や関連兵器の製造、整備、供給などを手がける海軍直属の大規模な工廠)に落ち、建物の半分が破壊された。

長崎県のまとめによると、この日の空襲被害は建物21万平方メートルが焼失、死者300名以上、重軽傷者500名以上、竹松、福重、桜馬場の国民学校が焼失、被災住宅634戸。また、大村市史によると、二十一空廠の死者は272人、うち70人は勤労動員された学徒だったという。「大村大空襲」と呼ばれる。

 

この日、成都を出撃したB-29は78機、うち大村上空に飛来したのは59機。対して三五二空と大村空が報告した戦果は、撃墜1機(ほか、命中弾を与えたもの18機)にすぎなかった。

大村は、大正11(1922)年、大村海軍航空隊が開隊して以来20数年、海軍とはなじみの深い町である。だが、空襲で初めて民間人の犠牲者が出たことで、市民たちの怒りの矛先はまず航空隊に向けられた。福山清隆少尉は、

「空襲のあと、『国防婦人会』のタスキをかけた女性たちが、長蛇の列をつくって抗議のため基地に押し寄せた」

と回想するし、山口喜代記飛長(飛行兵長)も、

「市民が基地に『飛行隊は何をしていたのか、空には一機も見えんではないか』と抗議にきた。隊員が外出先で石を投げられたこともあった」

と語る。11月に入ると、飛行長・小松良民少佐が隊員たちを集めて、

「戦局はさらに重大となり在支米軍の動きは侮りがたい。いずれ近いうちに大空襲が予想される。先般来の小規模な空襲に対する邀撃戦闘の結果は見るべきものがなく、市中における当隊の評判は必ずしも芳しくない。大村空ではどうしてもB-29を撃墜できなければ体当り隊を編成しようという案が検討されている。どうしても墜とせなければそれもやむを得ない」

と訓示した。

これは、先に飛行隊長・神崎大尉が「特攻の命令は出さぬ」と明言した訓示とは明らかに矛盾する。部隊としても地元住民からの抗議の声がよほどプレッシャーとなったのだろう。

その後、ふたたび襲来したB-29の大編隊に対し、体当たり攻撃もやむなしの訓示を受けた隊員たちの運命は――…。<【後編】「B-29」に体当たりをした者も…撃墜確実12機、撃破31機の「大戦果」を挙げた三五二空の隊員たち>にて、彼らの「大戦果」について語る。

定価:1430円(税込)。講談社ビーシー/講談社。 真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた「大嘘」など全11章の、これまで語られることがなかった太平洋戦争秘話を収録。
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