武子さんはこの話を信じていた。金メダルの栄光に輝いた夫にふさわしいと──。
しかし、大野さんの取材で「つくられた話の可能性」が指摘されると、それまで協力していた西家は大野さんを遠ざけるようになったという。
大野さんは「遺族の気持ちは分かる」と言い置いた上で、こう説く。
「戦後、自信を失った日本人がプライドを取り戻すには必要な『神話』だったのです」
分け隔てのない自由な精神の持ち主
「机の引き出しの中で大切にしているんですよ」
生さんはそう言いながら小箱を開けた。縦5センチほどの小判型。濃い黄土色に変色した金属地に陸軍の星のマークが金色であしらわれ、中央には飛翔するペガサスが配されている。
西から託されたバッジだった。裏には「軍用保護馬普通鍛錬指導員優良徽章」と刻まれている。西が軍馬育成の部署にいたときのものだと推定された。

「『俺だと思って』と託されたものですから。自分の原点であるような、そんな感じで大切にしているんです」
原点とは──の問いにこう応じた。
「まず西さんがいなければ、私はこの世にいなかった」
それに、と続けた。
「今思えば、西さんは普通の人だったんです。軍人であれば、上官の前にでると、コチコチに直立不動で敬語で話すものですが、私が見たところ、相手が上官であろうが誰であろうが、分け隔てのない口の利き方でした。ところが、あの時代、そういう自由の精神を持っている人はいなかったんですよ」
自由の精神──。少しうらやましそうな口調だった。
西が「バロン」とたたえられたロス五輪から90年。西の金メダルが日本馬術界の唯一の五輪メダルである。それ自体が「伝説」になっているのだろう。