2022.02.19

伝説の五輪メダリスト・バロン西の壮絶死の「伝説」が、日本人の心の支えとなった理由

最後の証言者が語る【後編】
1932年のロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを手にした西竹一(1902〜45年)。世界から「バロン西」とたたえられた男は、玉砕の島・硫黄島で生涯を閉じた。義理の甥に当たる医師、松本生(すすむ)さん(85歳)は生前の西を知る最後の証言者である。「これから戦地に行く。帰って来るかどうか分からない。これは俺だと思って持っていろ」こう言い残された松本氏が証言する、バロン西「伝説」を、前編に引き続きお届けしよう。

前編はこちらから

敵に背中を向けるわけにはいかない

翌年3月21日、大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。母から「西さんは死んだ」と聞かされた。

「自分を可愛がってくれた伯父が亡くなって悲しいというよりも、西さんは五輪でもやることをやったし、戦争でも軍人としての義務を果たしたという、誇らしい気持ちでした。そういう時代だったんです」(松本生さん)

料亭で一献する西竹一(中央)。右端は松本さんの父胖さん、左端が祖父高三郎さん(第2代千葉医科大学長)=1930年代後半の撮影と思われる。(松本生さん提供) 料亭で一献する西竹一(中央)。右端は松本さんの父胖さん、左端が祖父高三郎さん(第2代千葉医科大学長)=1930年代後半の撮影と思われる。(松本生さん提供)
 

戦後になって、西が44年8月に硫黄島から本土に戻り、千葉の松本家に訪ねてきたことを知る。あいにく生さんと母の須美子さんは不在だった。

実は、同年7月に硫黄島に渡った際、西の乗った輸送船は同島沖合で米潜水艦に撃沈された。西は命からがらに島にたどり着いたが、積み込んだ戦車は海の藻屑に。そのため改めて新たに戦車を受領するため本土に戻った。

生さんはこんな秘話を明かす。

「人づてに聞いた話です。西は、竹田宮(竹田恒徳氏。元大本営参謀で、馬術に造詣が深く戦後は日本馬術連盟会長を務めた)と親しかった。『竹田宮に話して、戦車が動き回れない硫黄島よりも、もう少し活躍できるようなところに配属させてもらうように話してみる気はないのか』とやんわり忠告してくれる人もいたそうです。しかし、西は硬く拒んだそうです。敵に背中を向けるわけにはいかなかったのでしょう」

ノブレス・オブリージュ──。職業軍人、そして貴族としての誇りだったのか。

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