諸説あり!上総広常はいつ、どこで頼朝軍に合流したのか?

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第7話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で日本中世史が専門の歴史学者の呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。第7回目となる今回は、佐藤浩市さん演じる上総広常ら有力豪族を味方に引き入れるための交渉の様子を描いた昨日放送の第7話「敵か、あるいは​」について、さまざまな史料や最新の学説を参照しつつ、専門家の視点から見たみどころを解説してもらいました。

第1回:いよいよ放送開始!『鎌倉殿の13人』第1話を歴史学者はどう観たか
第2回:仲が悪いけど実は〇〇〇!?伊東祐親と工藤祐経の複雑すぎる関係
第3回:源平合戦の幕開け! なぜ以仁王と源頼政は挙兵するに至ったのか?
第4回:頼朝軍の最初のターゲット! 山木兼隆と堤信遠って何者??
第5回:北条時政と大庭景親の罵り合いに見る、当時の「現金」な主従関係
第6回:
決死の脱出劇!頼朝・時政・義時が辿った逃走経路の謎

『鎌倉殿の13人』の第7話では、上総広常(かずさ ひろつね)を味方につけるための交渉が描かれた。関東屈指の大豪族である広常の臣従によって、源頼朝は大庭景親に対して俄然優位に立ったから、合戦シーンはないものの序盤の山場と言える。前回説明したように、この時、北条義時は房総半島ではなく甲斐国にいた可能性すらあるので、広常を説得する場面はフィクションであるが、ドラマとしては見応えがあった。歴史学の観点から第7話のポイントを解説する。

 

素早かった上総広常の挙兵

上総広常の動向について、『鎌倉殿の13人』は鎌倉幕府の準公式歴史書『吾妻鏡』に準拠して描いている。同書によれば、広常は源頼朝の参陣要請に対して最初は曖昧な態度をとり、ようやく重い腰を上げて隅田川(現在の流路とは異なる、下総国と武蔵国の境だった)のほとりまで進軍していた頼朝の元に馳せ参じたのは、治承4年(1180)9月19日のことである。

けれども、京都の貴族である九条兼実(くじょう かねざね)の日記『玉葉』の治承四年九月十一日条には、上総広常が源頼朝に属したと記されている。当時の関東から京都への情報伝達速度を考慮すると、広常は8月終わりころには反平家の旗を掲げて挙兵していたと考えられる(元木泰雄『治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館、2013年)。

加えて延慶本『平家物語』によれば、源頼朝は石橋山合戦以前、既に上総広常・千葉常胤(ちば つねたね)から参陣の約束を取りつけている。広常がなかなか旗幟(きし)を鮮明にしなかったという『吾妻鏡』の記述は疑わしい。

坂東周辺地図〈編集部作成〉

『吾妻鏡』を読む限り、源頼朝軍は平穏無事に上総国から下総国へ北上しているが、当時、上総を治めていたのは、平家の侍大将である伊藤忠清だった。忠清は京都にいたが、忠清の一族・郎党が上総目代として現地に赴任していたはずで、この目代が頼朝軍の通行を妨害しなかったのは不審である。

野口実氏の研究によれば、当時の上総目代は伊藤一族の平重国(養父の姓である「平」を名乗った)であり、治承4年9月に源氏方に討たれたという(『増補改訂 中世東国武士団の研究』戎光祥出版、2020年)。源頼朝直属軍が重国を討ち取ったのであれば、『吾妻鏡』に記述があるだろうから、広常が討ったと考えられる(元木前掲書)。広常が事前に上総の平家方勢力を撃破していたからこそ、頼朝軍は干戈(かんか)を交えることなく上総国を通過できたのである。

関連記事