2022.02.18
# 映画 # ドライブ・マイ・カー

『ドライブ・マイ・カー』が「自分の傷つきに気づきにくい男性」に与えてくれる“大切なヒント”

杉田 俊介 プロフィール

熊谷の考えを敷衍すれば、ホンネとは、しばしば露悪的で、それを発することで他者に影響を行使したり、その場の空気をコントロールしようとする言葉である。男性たちは、ホンネで語り合おう、タテマエではなくホンネを言い合おう、という脅迫的な論理によって、しばしばホモソーシャルな関係を強化していく。

それに対して、「本心」とは、発言の効果ではなく、言葉をちゃんと聞くことがポイントになる。この場合の「聞くこと」には、二つの意味があり、一つは他者の話を聞くこと。もう一つは、自分の気持ちをちゃんと聞くことである。自分自身にもよくわからず、よく聞こえていない自分の声に耳をすませる、ということだ。自分の心の声を聞けない人間は、しばしば、他者の声も聞き逃したり、そもそも他人の話を聞いていなかったりする。

ホンネとは、じつは演技的=操作的な権力性を帯び、ホンネで語る男たちのホモソーシャリティを強化しかねない。これに対し、この自分の本心とは、他者関係の中でお互いの声に静かに粘りづよく耳を澄ませることで、いわば協同的――当事者研究的/精神分析的/相互ケア的――に発見されうるものであり、それは本人にすら完全には私的に所有し得ないような「声」なのだ。

 

映画の「長さ」の効果

この場合、重要なのは、『ドライブ・マイ・カー』が約3時間(179分)という長さを持つことである。しかし、多くの人が述べているように、この作品を観ていると、不思議なほど、3時間という長さを感じさせない。約3時間という長さは、自然で心地よい流れとして体感される。

『ドライブ・マイ・カー』という作品は、村上春樹の原作テクスト/チェーホフのテクスト/物語内演劇/演者の身体/映画、等々が折り重なるような複雑な構造を持ち、重層的な語りによって展開されていく。さらに言語の面からみても、日本語、韓国語、英語、中国語、さらには韓国手話などが要所要所で入り混じってくる。

批評用語では、インターテクスチュアリティ(複数のテクストの相互関連性のこと)やポストメディウム(芸術作品が純化された固有のジャンルの制作物ではなく、様々なメディアにおいて領域横断的に展開されることが当たり前となった環境のこと)などと呼ばれる多層的な構造を『ドライブ・マイ・カー』はたくみに用いている、と言えるだろう。

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