【第1回】54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」
【第2回】手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実
【第3回】文字が書けない…54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授の苦悩
雑誌でアルツハイマーを告白
クリスティーンとの出会いは、若井に大きな変化をもたらした。札幌滞在中に若井は、高橋夫妻の勧めで日本キリスト者医科連盟(JCMA)の国際交流委員長を引き受けることにした。
これは、韓国、台湾、日本のキリスト教関係の医療従事者が毎年持ち回りで開く集会の、いわば日本側代表というポジションである。高橋夫妻は、自分たちが実務を担当することを条件に、若井に委員長就任を打診し、若井はそれを受け入れた。
北海道から療養先の沖縄に戻った若井は、克子と話し合い、栃木に帰ることを決める。
栃木に戻った若井は、JCMAの機関紙『医学と福音』に「国際交流委員長に就任して」という一文を寄稿する(08年4月号)。その中で、自分が若年性アルツハイマー病であることを初めて公表した。

「国際交流委員長に就任して」
2年前に若年性アルツハイマー病と診断され、定年まであと1年を残してリタイアした。その少し前から、身体的にも精神的にもどん底の状態が続いていた。そんな時、沖縄で開業していた大学の先輩、上田裕一先生に「沖縄へいらっしゃい」と言われて、療養のために沖縄へきた。温暖な風に癒されてだいぶ元気になった。
ところが1年前の夏、次男の結婚式があり札幌に行ったところ、思いもかけず自動車事故に遭ってしまった。右腕を骨折し、2ヶ月もの長期逗留をすることになった。その時、JOCSの元カンボジアワーカーだった札幌在住の高橋一・貴美子夫妻にたいへんお世話になり、お薦めをいただいて、国際交流委員長を引き受けた次第である。
第37回エクスチェンジプログラムは、JCMA北海道部会の皆さんが開催実務をお引き受け下さり、その事務局長は高橋一さんが、事務局は札幌中央ファミリークリニックがお引き受け下さっていて、皆さんで協力して昨年よりすでに実質的な準備を始めて下さっている。
これまで私は、たえず後ろを振り向くことなく走ってきた。しかし、アルツハイマー病を診断されてこれまでのように何でもできると思っていたことができなくなり、自分のありようが白日のもとにさらされた。そして、これまでの信仰が根源的に問われることになった。
「老いゆけよ、我と共に! 最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手の中にあり。神言い給う。全てを私が計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神に委ねよ。全てを見よ。しかして恐れるな!」と。(ロバート・ブラウニング作『ラビ・ベン・エズラ』より。)