手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実

阿部 崇 プロフィール

白衣を脱ぎ捨て途上国の支援へ

困ったのは家族だ。医者といっても開業医ではない若井の収入は、それほど多くなかったが、JOCSに移ったことで、それが激減した。4人の子どもを育てる克子は困り果てた。

「様子を見かねたのか、日曜日の集会で一緒になる友人たちが、『これ、使ってください』と献金してくれたこともあった」(克子)という。

暮らしを立てていくため、若井はJOCSの活動の傍ら、栃木県内の病院で臨床医として週一回の勤務をはじめる。克子も非常勤で学校に勤めはじめた。

95年に阪神・淡路大震災が起こると、彼はいち早く救急車で被災地に駆けつけ、泊まり込みで被災者の支援にあたった。一人でも多くの命を救うためなら、自らの身は顧みない――若井の人生は、そうしたキリスト者らしい奉仕精神を軸に展開し始めていた。

JOCSでの任期を終えた若井は、辞職していた獨協医科大に、教授として復帰した。そのまま脳外科医の道を突き進めば、関連病院の然るべきポストと高い収入を得る、という道が約束されていたはずだ。

だが若井はそうした道を選ばず、99年、母校・東大医学部の教授に身を転じた。白衣を脱ぎ捨て、国際地域保健の専門家として、世界の貧しい人々を助ける道を選んだのである。

東大時代の現場で(写真提供:若井克子)

東大で地域保健学を教えるようになった若井は、研究費の少なさに悩まされることになる。そこで、講義のない土曜日はかつて勤務していた栃木県内の病院でアルバイトをし、その報酬を自らの研究室に寄付して、学生らを海外に派遣する際の費用に充てたりしていた。

当時、若井の下で講師を務めていた神馬征峰(じんばまさみね)(現・東京大学大学院医学系研究科・国際地域保健学教室教授)によれば、若井は「現場を知った上で論文を書ける人間を養成することが、この教室の使命だ」と考え、学生の論文指導に厳しくあたった。途上国の医療体制を整えるためには、影響力のある雑誌への論文投稿が必要だと感じたからだ。

 

「指導は厳しかったです。学生にはまず、夏休みに論文を100本読むことを課す。同時に助教たちによって統計学や疫学などの分野の学問的トレーニングが行われます。そうやって足腰を鍛えた学生を現場に派遣し、先方の研究者と協力してデータを集めさせ、それを分析し、論文にまとめさせるんです」(神馬)

一方で自らも、ベトナム、ラオス、ニカラグア、バングラデシュなど途上国をいくつも回った。次々と書き上げた論考は世界の五大医学雑誌に数えられる『ランセット(The Lancet)』にたびたび掲載された。臨床の現場を離れても、若井は相変わらずハードワーカーだった。

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