手術上手な脳外科医が一転、ネクタイが結べず…東大教授を襲った「若年性アルツハイマー」の現実

東京大学教授・若井晋(54歳)。ある日彼は、自分が漢字を思うように書けなくなっていることに気づく。それは、医師でもある晋が最も恐れていた「アルツハイマー病」の兆候だった。
人並外れた頭脳で人生を切り開いてきた男が、地位を、知識を、そして言葉を失うとき、本人は、そして家族はどうなるのか。晋の人生を振り返りながら、絶望から再生へと至る道のりをたどる。第2回となる今回は、晋が紆余曲折を経て東大に赴任し、その後、認知症で生活に支障がでてくるまでを追った。

「脳外科医は50歳で辞めよう」

大学卒業後、1970年代から80年代はじめにかけて、若井は都立府中病院や東大医学部附属病院で腕を振るった。

脳神経外科の現場は多忙だった。そもそも当時は、臨床医が少なかった分野である。府中病院では、わずか3人の医師で年間300件以上の手術をこなすこともあった。救急患者は昼となく夜となく運ばれてくる。だが彼は激務を見事にこなし、周囲からも高く評価されていた。

手術に臨む晋(写真提供:若井克子)

34歳の時、転機が訪れる。日本キリスト教医科連盟(JCMA)の日本・韓国・台湾の会合で、台湾にある彰化基督教病院の院長から、脳神経外科医長として来てほしいと請われたのである。海外医療協力に関心のあった若井は思い切って一家6人での台湾赴任を決意した。

「台湾では新聞にも載っちゃうくらい歓迎されたんですよ。日本の東京大学から来た脳外科医だということでね。周りの人がすごく良くしてくれて……。晋さんはあの頃が一番楽しかったのかもしれません」(若井の妻の克子)

若井にとって初めて経験する海外での医療活動だった。

台湾の家の前で(写真提供:若井克子)

台湾での充実した任期(1年)を終えて帰国した82年、若井は栃木県壬生町(みぶまち)にある獨協医科大学に脳神経外科の講師として迎えられた。職場の先輩にあたる上田裕一(やすいち)医師(当時は助教授)がそのころを振り返る。

「教授が、『えらく頭のいい講師が来てくれる』と言って喜んでいたんです。実際、若井先生は抜群に優秀でした。なにしろ、英文のペーパー(論文)をどんどん投稿し、それがアクセプト(受理)されるんですよ」

手術の腕は上田のほうが一枚上手だったが、手技(しゅぎ)を教えるとあっという間にマスターしてしまった。患者からの信頼も厚かった。若井は周囲から将来の教授候補と目されるようになったが、本人に出世欲はさらさらなかった。

身体を壊して大学病院を辞めることになった上田が、若井に自分の後任になれと声をかけたときも、きっぱり辞退した。

「『私はキリスト者ですから、違う人生があります』って言ってね。彼にとってみたら、主軸は大学がどうのとかではなかったんですねえ」(上田)

周囲の期待とは裏腹に、このとき若井の心中に芽生えていたのは、医師として、そしてキリスト者として、自分はいかにあるべきかという問いだった。当時の彼の内面を、克子はこう推測する。

「日本で目の前の患者を一人手術するのにかかるのと同じ額のお金で、もっと多くの発展途上国の人達を救うことができるんじゃないか。脳外科医をやっていてそういう疑問をもったんだと思うんです。それで『脳外科医は50歳で辞めよう』と前から言っていました」

 

獨協医大での若井のキャリアは、2年間の米国留学を挟んで10年近くに及ぶ。その末の91年に医大を退職して彼が選んだのは、JOCSの総主事の道であった。途上国へ医師や看護師を“ワーカー”として派遣しているJOCSの事務局を統率する実務責任者が総主事だ。

2年後にはワーカーを募集したり、派遣先のワーカーを訪問しケアする海外担当ディレクターを兼任する。合計4年間の任期中に32回もの海外出張を繰り返し、現場で援助プロジェクトに携わるワーカーを訪ねるだけでなく、自らも短期の医療協力を行った。

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