スピノザの「裏の主著」が実践する、「哲学する自由」とは何か

聖書はどんな本なのか?
吉田 量彦 プロフィール

ある特殊な目的のための「決まり」

さて、旧約聖書本来の論理構成にしたがうなら、神の法とは本来aを指すはずだとスピノザは主張します。自然の世界を、そこで通用している決まりもふくめて、一から創造した(とされている)ものこそ聖書の神だからです(第4章1節。もちろんbもaの枠内でしか成り立たないものである以上、結局aもbもひっくるめて、すべてが神を原因とする神の法だと言えないこともありませんが)。

しかし実際の旧約聖書では、むしろbの、しかもかなり特異な成り立ち(預言者たち、特にモーセに与えられた啓示)を背景にもつ決まりだけが、神の法=律法と呼ばれています。なぜでしょうか。

それはこうした「律法」が、ある特殊な目的のために定められた「決まり」だったからだ、というのがスピノザの答えです(第4章5節)。その目的とは、後にユダヤ人と呼ばれることになる人たちの祖先である古代イスラエル人たちを、一つの集団へとまとめ上げ、そしてまとめ続けることでした。

彼らは言語文化的習慣として、あらゆるものごとを自分たちが信じる(ことを義務づけられている)唯一神に関係づけて表現しますから(第1章23、24節)、自分たちの社会をまとめ上げるための決まりも神の権威にもとづく決まり、つまり神の法としてイメージしていました。

少なくとも預言者たち自身、特に預言者の中の預言者、至高の預言者とされたモーセは、そういうイメージを社会に浸透させることで自分たちの社会のまとまりを保とうとしたのです。こうした律法=神の法は、後に古代イスラエル人たちが国土を獲得したことにより、彼らの国の法として位置づけられることになります。

 

なぜ聖書は大事にされているのか

言うまでもなく、古代イスラエル人たちの国はとっくの昔に滅亡しており、彼らの子孫であるユダヤ人たちも世界各地に散り散りに分かれて生活しています。

もちろんユダヤ人たちは、自分たちの民族的一体感を保つため、こうした「神の法」にしたがった生活を今も送っているわけですが、この決まりは国家の法としてはすでに失効しています。それは大日本帝国憲法や教育勅語が(いくらそれを懐かしむ人がいようとも)第二次世界大戦後の日本国ではすでに失効しているのと同じようなものです。

ということは、もし旧約聖書を「律法の書」という観点から眺めるなら、それはとうの昔に滅びた古代国家の失効した法規範を、ただ記録してあるだけの書物ということになりそうです。もしそうなら、古代法制史の専門研究者でもない限り、そんな書物を後生大事に読み続ける必要はないでしょう。

しかし、スピノザはもう少しひねった答えを用意しています。それをお話しする前に、まず先ほど示しておいた第3の立場を片づけておきましょう。

参照文献
・吉田量彦訳『神学・政治論』光文社古典新訳文庫、全2巻、2014

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