スピノザの「裏の主著」が実践する、「哲学する自由」とは何か

聖書はどんな本なのか?
吉田 量彦 プロフィール

なぜ預言者は信頼を集めるのか

預言者本人たちでさえこういう危なっかしい確信で動いているだけなのですから、いったいどうして彼らの言説が「預言」つまり神の言葉として認められるようになったのか、考えてみると大変不思議なことです。

スピノザはごく単純に、預言者たちがある程度の信頼を集められたのは、彼らが折り目正しい生活を送っていたからだと結論します。言葉の内容は同じでも、でたらめな生活を送っている(と、周囲から思われている)人が口にするのと、非の打ちどころのない生活を送っている人が口にするのとでは、世間的な説得力がまるで違うとスピノザは言うのです。

言いかえれば、預言者たちの語る言葉の説得力は、言葉そのもののもつ論理構成、つまり理詰めによって担保されているのではなく、彼らの普段の生活態度という、ある種の権威によって担保されていることになります。

こうした生活態度の折り目正しさを、『神学・政治論』のスピノザは「ピエタスpietas」というラテン語で表現しています。ピエタスは「敬虔」と訳されるのが普通ですし、畠中尚志訳の岩波文庫版でもそうなっていますが、光文社古典新訳文庫版では(ごく例外的な数ヵ所を除き)あえて別の訳語をあてています。

すでに引用の中でも登場した「道徳心」という言葉がそれです。この訳語選択の理由については、今回の終わり近くで改めて説明しようと思います。

ひとまずまとめておきましょう。聖書を預言の書、あるいは啓示の書とすることに、スピノザは特に反対していません。ただしその場合、預言についても預言者についても、その性質をこれまで述べてきたような形で注意深く理解する必要があるのです。

 

2. 聖書は律法(神が決めた法)の書である

旧約聖書に登場する預言は、たいていの場合、神からの命令という形をとっています。

こうした命令には、時空的に1回限りの場面で1回限りの行いを命じたもの(たとえば「イスラエルの民を率いてエジプトから脱出せよ」という命令)もあれば、特定の場面で常に特定の行動をとるよう命じたもの(たとえば「安息日を順守せよ」とか「豚肉を口にするな」といった命令)、つまり恒久化を前提とした命令もあります。

後者の命令を表現する場合、聖書の日本語訳では「律法」という、たいへん耳慣れない言葉があてられることになっています。

神の取り決めた法、つまり神が律する法という意味なのでしょうが、これはほぼ聖書を翻訳するためにしか使われないきわめて特殊な用語であり、元のラテン語はレックスlex、つまり単なる「法」あるいは「決まり」です(元の言葉というからにはヘブライ語までさかのぼるべきかもしれませんが、話が錯綜するので省略します)。

非常に漠然とした広がりをもつ言葉ですので、ひとまず「決まり」としておきます。

決まりには、(a)自然にそう決まっている決まりと、(b)ひとがそう決めた決まりがあります(第4章1節)。aは今日のわたしたちが言うところの自然法則ですから、変わりませんし、そもそも変えようがありません。これに対し、bはaによって決まっている人間の活動範囲の枠内で、さらにその可能性の範囲を絞ろうとするものです。

たとえば「赤信号で道路を渡ってはいけません」という決まりは、本来いつでもどこでも(車にはねられる危険を顧みなければ)道路を渡る能力をもっているはずの人間に、この能力を信号が青の時に限って横断歩道上で行使するよう(=赤信号の時には行使しないよう)求めています。

逆に言えば、aの枠を踏み越えてしまうことを命じるようなbは、いくら作っても有効に機能しないはずだとスピノザは考えています。これも『神学・政治論』後半の政治論に向けての重要な伏線となりますので、ちょっと覚えておいてください。

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