スピノザの「裏の主著」が実践する、「哲学する自由」とは何か

聖書はどんな本なのか?
吉田 量彦 プロフィール

神の言葉が聞こえるのはどんな人か

神の言葉は、いつでもどこでも聞こえるようなものではないだけでなく、だれにでも聞こえるようなものでもありません(少なくとも聖書では、それが大前提になっています)。したがって、普通の人には聞こえないし、万が一聞こえたとしても何がなんだか意味不明な神の言葉を、ちゃんと聞き取って通訳してくれる人が必要になります。

それが「預言者prophetes」という存在です。『神学・政治論』本文は、ヘブライ語で預言者を示すナビという言葉が、ごく普通の意味としては「通訳interpres」を示しているという語源確認から始まります(第1章1節)。

なぜ、預言者には神の言葉が聞こえるのでしょうか。普通の人より賢いからでしょうか。そうではない、とスピノザは考えます。

たとえば、旧約聖書で人類随一の知恵の持ち主とされているのはイスラエル統一王国第3代の王、ソロモン(以下、聖書の登場人物の表記については、原則的に新共同訳聖書の表記にしたがいます)ですが、彼が神の声を聞いたという記述は皆無ではないものの(第2章13節)、聖書にはほとんど出てきません。むしろ反対に、聖書に出てくる無数の預言者の中には、そうした知恵や教養とは縁のない人たちも少なからず(というか、驚くほどたくさん)混じっています。

ここからスピノザは、預言者たちが共通にもっている能力、つまり預言あるいは啓示を受けるために必要としている能力とは、知性ではなく「並外れて活発な想像力」だと結論します(第2章1節)。

分かりやすく言いかえてしまうと、並外れて活発な想像力imaginatio の持ち主とは、つまり、並外れて思い込みの激しい人ということです。預言の本質は、預言者たち本人の思い込みimaginatio なのです。

 

「気持ちの上での確実性」

もちろん、こんなことをストレートに書いたら殺されてしまいますから、スピノザはもう少し用心深い書き方をしています。

つまり彼は、聞こえてくる言葉の発信源が(本人の脳内妄想でも悪魔でもなく)神だと確信するためには、預言者本人の想像力(思い込み)だけでは十分ではなく、それに加えて何らかの特別な「しるし」を神から授かることが必要だと言うのです(第2章3節)。

しかしよく読むと、こうした「しるし」は、神の臨在を示す客観的な「証拠」でなくてもまったく構いません。つまりあくまでその預言者本人にとって、自分は悪魔ではなく神から言葉を授かっている、という気持ちになれるようなきっかけであれば、何だって構わないのです。

預言の確かさ(確実性)は、原理的・方法的に立証された確実性(スピノザはこれを「数学的確実性certitudo mathematica」と呼んでいます。英語で数学をmathematics といいますが、これはギリシャ語の「方法mathesis」から派生した言葉です)にはどう転んでも届きません。

それはどうあっても「気持ち(モラル)の上での確実性certitudo moralis」、つまり預言を授かった(と思い込んでいる)当人の、その思い込みのレベルにとどまる確実性なのです。現に「神さまの言葉だと思い込んでいたら、じつは悪魔のささやきだった」という例が聖書にも出てきます。

例えばイスラエル統一王国第2代の王(先ほど出たソロモンの父です)ダビデは、神を装った悪魔にそそのかされ、国内の人口調査(神の支配権を侵す不遜な行為として伝統的にタブー視されていたようです)を行ったために神罰を食らったことになっています(第2章4節)。気持ちの上での確実性が裏目に出たのです。

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