スピノザの「裏の主著」が実践する、「哲学する自由」とは何か

聖書はどんな本なのか?
スピノザが匿名で刊行したにもかかわらず、4年後にオランダ全土で禁書処分を受け、哲学上の主著『エチカ』の出版を不可能にした裏の主著『神学・政治論』において、スピノザが実践した「哲学する自由」とは何だったのか?
吉田量彦氏がスピノザの生涯と思想を綴った最新刊『スピノザ
 人間の自由の哲学』から、『神学・政治論』の「神学」についての箇所を抜粋して公開します!
 

聖書はどんな本と考えられてきたか

前回申し上げた通り、『神学・政治論』全20章のうち最初の15章、つまり4分の3(文章量に換算するとそれ以上)が「神学」にあてられています。

欧米の大学には今でも神学部があり、学生たちが普通に専攻できる専門分野の一つとなっていますから、内容に対する賛否はともかく、神学という言葉自体は広く認知されているでしょう。

これに対し、キリスト教徒が全人口の1パーセントにも満たず、それでなくても実学偏重がひどい日本の大学では、神学部はごく一部のキリスト教系私立大学にしか設置されていません。したがって日本語で神学と言われても、そもそもどういう学問なのか(というか「学問」と呼べるようなものなのか)、内容を想像するのはなかなかむずかしいと思います。

ここは先に進むためのごく便宜的な理解として、以下でいう神学とは結局のところ聖書を論じた聖書論であり、また同時に、聖書を聖典とする宗教を論じた宗教論であると考えてください。

聖書はどんな本なのか。そんな本を聖典とする宗教は、どんな宗教になる(はず)なのか。『神学・政治論』前半部でスピノザが明らかにしようとしているのは、突き詰めればそういう問題なのです。

聖書がどんな本なのか明らかにするためには、そもそもどんな本と考えられてきたのか確認しておく必要があります。『神学・政治論』前半部の議論をわたしなりに整理すると、スピノザは次の3通りの答えを想定し、それぞれに対して周到で批判的な分析を試みているようです。

1. 聖書は預言(啓示)の書である
2. 聖書は律法(神が決めた法)の書である
3. 聖書は真理の書である

以下、この順番で見ていきましょう。まずは預言(啓示)の話から始めたいと思います。

 

1. 聖書は預言(啓示)の書である

預言も啓示も分かりづらい言葉です。まず気をつけていただきたいのですが、「預言」と「予言」は違います(すぐにお話しするように、もちろん意味的に重なる部分もありますが)。

予言とは、これから起こる出来事を(あらかじ)め言うことです。「今から半年後、日経平均株価が1万円を割る」というのは予言ですし、「1999年7月、空から恐怖の大王がやって来る」というのも予言です(やって来ませんでしたが)。

これに対し、預言とは、言葉を預(あず)かることであり、預かった言葉を言うことです。だれから預かるかというと、もちろん神さまです。神から言葉を預かり、預かった神の言葉を他の人たちに語り聞かせる。これが預言です。

もっとも聖書、特に旧約聖書を読めばすぐわかることですが、神が預けてくれる言葉の中には「オレを崇めないと後々こういう悲惨な目にあうぞ」といった、先ほどの「予言」も数多く含まれています。予言と預言の境界は、そういうわけで、実際にははっきり線引きしづらい場合も少なくありません。

しかし今申し上げた概念的な区別は、少なくとも言葉の上でははっきりしています。『神学・政治論』を読む限り、スピノザも預言prophetia と予言praedictum を大まかに使い分けています。

とはいえ、神の言葉がいつでもどこでも聞こえているようなものであったら、あらためて「預かる」必要はないでしょう。したがって神から言葉を預かるとは、それまで聞こえなかったものがある日、突然(ひら)かれ、示されることを意味しています。

「預言」が「啓示」とも呼ばれるのはこのためです(啓示と訳されるラテン語revelatio は、何かを隠していた覆いvelum が取り払われるre- という所作に由来します)。

啓示と預言の使い分けには今一つはっきりしない部分もありますが、ざっくり分けて視覚情報と聴覚情報がごちゃごちゃに入ってくるのが啓示、聴覚情報だけが入ってくるのが(あるいは、啓示の中の聴覚情報だけを選択的に指示している言葉が)預言、と考えればわかりやすいでしょう。

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