彼はいかにして思想家になったか――破門された若き日のスピノザ

西洋史における「破門」とは何か
父親の商会を引き継いだスピノザの苦悩、彼を抑圧する「破門」という制度、そしてスピノザよりも前に同じ処分を受けた人物、ウリエル・ダコスタを襲った悲劇とは――。
吉田量彦氏がスピノザの生涯と思想を綴った最新刊『スピノザ
 人間の自由の哲学』から、「破門」を受けた若き日のスピノザについての箇所を抜粋して公開します!
 

不幸に見舞われるスピノザ一家

5人の子の母と思われるハンナ=デボラが早逝したことは、前回で触れました。1638年のことです。その5人の子のうち、まず長男のイサークが1649年に亡くなります。20歳になるかならないかの、短い生涯でした(S.162)。

2年後の1651年には、先ほど申し上げた通り、前年に結婚したばかりの長女ミリアムが、生まれたばかりの幼子を残して亡くなります。まだ22歳の若さでした。

ということは、1651年末の時点で生き残っている3人の子のうちで、スピノザが最年長になります。恐らくは亡兄イサークに代わる家業の後継者と目されて、父ミヒャエルから改めて商売の手ほどきを受けていたでしょう。

家族の不幸はまだ止まりません。2年後の1653年には、父ミヒャエルの3番目の妻エステルが亡くなります。死のおよそ1年前に、死期を悟った彼女が詳細な遺言書を作成していたことは、すでに前回お話ししました。

そしてその翌年、1654年の春には、遂に父ミヒャエルも亡くなります。エステルの死からわずか5ヵ月後のことでした。ミヒャエルの死因は明らかではありませんが、3人目の妻にまたもや先立たれた心労は、決して小さくはなかったものと思われます(S.166)。

レベッカもこれに前後して姉の後妻として嫁いでいったでしょうから、結局、家に残ったのはむさくるしい年頃の男兄弟が2人(ただし家政婦がいたようです)。わずか5年ほどの間に、また寂しくなったものです。

残された2人、スピノザと弟のガブリエルは、父の商会を引き継いで、しばらくは家業に精を出していたようです。度重なる不幸からの出直し、仕切り直しの意味もあったのでしょう、いつごろなのか特定はできませんが、店の名前を「ベントー&ガブリエル商会」に改めています。「ベントー」はバールーフ(ベネディクトゥス)のポルトガル名です。

踏みにじられたスピノザの帽子

ただ、商売そのものはお世辞にも順調ではなかったようです。2人が(支払人の名義は兄であるスピノザの方になっていますが)共同体に納めていた各種納付金の徴収記録が残っているのですが、固定資産と所得に対する累進課税的な部分の徴収額は、父親の死後に激減しています(S.210-212)。

またこの時期、言を左右にして借金を返そうとしない男をスピノザが当局に訴え出たところ、いきり立った相手の男に殴り飛ばされる、という珍事件も起きています(S.212-219)。

公証人の残した文書が些末な点にこだわり過ぎていて、無駄な情報が山盛りになっている割には今一つ事情がはっきりしませんが(たとえば争点とほぼ無関係の、家政婦とのやり取りまですべて書き取ってあります。皮肉にもこの無駄に細かい公証人のおかげで、わたしたちはスピノザ家に家政婦がいたことを知ることができるのです)、どうやら取引で発生した代金を踏み倒されそうになったようです。

無駄な情報ついでに話しておくと、この時スピノザは借金相手本人だけでなく、後からやって来たその兄弟にも殴られた上、かぶっていた帽子(殴られた衝撃で地面に落ちたようです)を側溝に投げ捨てられ、ぐりぐりと踏みにじられています。

事件はその後、当局の介入で和解が成立し、結局、借金は利子も含めて返してもらえた(少なくとも先方が書面で返済を約束させられた)ようなのですが、2度殴られたことさえ不問に付したスピノザが、この時「帽子代」を追加請求しているのはちょっと笑えます。

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