2022.02.06

「もう生きては帰れない」…山本五十六戦死のその時、護衛についていた6名の搭乗員に訪れた悲劇

山本五十六聯合艦隊司令長官——日本を破滅に追い込んだあの戦争にかかわった軍人の中で、戦後もヒーローとして取り上げられる筆頭といえば、この人だろう。昭和18(1943)年4月18日、最前線の部下たちを激励に向かった搭乗機が、暗号を解読していた敵の戦闘機隊に急襲され、墜落、戦死した。この重要人物の護衛にあたっていた戦闘機はわずか6機に過ぎず、搭乗員はみな20歳そこそこの若者たちだった。その中で唯一、戦後まで生き延びた搭乗員が、神立氏に語ったあまりに「悲壮な覚悟」とは? 後編となる本稿では、山本五十六長官の護衛任務を伝えられた6名の搭乗員の運命について語る。

【前編】山本五十六の戦死に翻弄された、ある若者たちの運命

徹底的に秘匿された山本長官の死

6機の護衛戦闘機の搭乗員に任務が伝達されたのは、17日夜のことであった。指揮官兼第一小隊長・森崎武予備中尉、二番機・辻野上豊光一飛曹、三番機・杉田庄一飛長(飛行兵長)。第二小隊長・日高義巳上飛曹、二番機・岡崎靖二飛曹、三番機・柳谷謙治飛長。司令室に呼ばれた六人の搭乗員は、翌日の任務は聯合艦隊司令長官の護衛であり、その責任の重いことを伝えられた。

 

森崎予備中尉は24歳。神戸高等工業学校在学中に召集されて昭和15(1940)年4月、飛行科予備学生7期生として海軍に入った。ミッドウェー海戦で重傷を負い、顔の右頬や手にまだケロイドが残っていた。ラバウルに進出以来半年あまり、実戦の経験はすでに十分に積んでいたが、負傷の後遺症で視力がよくなく、薄いサングラスを常用していた。

日高上飛曹も24歳、昭和15年1月に操縦練習生を卒業していて、開戦以来、フィリピンから東南アジアを転戦。この日の6機のなかでいちばん搭乗歴の長いベテランだった。

辻野上一飛曹は21歳。4月3日に着任したばかりだが、飛行隊長・宮野大尉の眼鏡にかなったのであろう、「い」号作戦では宮野の二番機として出撃している。

岡崎二飛曹は20歳。ラバウルに来て5ヵ月が経過しているが、大きな空戦にはこれまであまり縁がなく、「い」号作戦で急に頭角を現した感のある搭乗員であった。

柳谷飛長は24歳。昭和15年、徴兵で海軍に入り、内部選抜で戦闘機搭乗員になって以後は、ずっと二〇四空にいて、すでに相当な実戦の場数を踏んでいる。

杉田飛長は、最年少の18歳。だが、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男で、敵爆撃機を空中衝突で撃墜するなど、その元気で向こう見ずなところは比類がなかった。

昭和18(1943)年4月18日、山本長官機を護衛した6名の零戦搭乗員。上段右から森崎武予備中尉、辻野上豊光一飛曹、杉田庄一飛長。下段右から日高義巳上飛曹、岡崎靖二飛曹、柳谷謙治飛長
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