操縦を教える教員、教官も命がけ
搭乗員の錯覚で、飛行機が墜落した例もあった。田中國義さん(少尉/1917-2011。戦後、自動車整備工場経営)は、「日本海軍一」とも称される操縦技倆をもつベテラン戦闘機乗りだったが、戦闘機の訓練部隊だった大分海軍航空隊で教員を務めていた昭和17(1942)年8月、のちに新鋭戦闘機「紫電改」の指揮官として名高くなる鴛淵(おしぶち)孝中尉(のち大尉、戦死後少佐)と一緒に落下傘降下したことがある。

「鴛淵中尉が訓練の教程を終えたあと、一時横須賀海軍航空隊に転勤して、また大分空の教官として戻ってきたんですよ。練習機では練習生は前席に、教員(下士官)、教官(士官)は後席に乗るんですが、彼はそれまで後席に乗ったことがないから、後席に乗る訓練をやったわけです。飛行機は、旧式の複葉機、九〇戦を複座にした九〇式練習戦闘機でした。
そしたら、宙返り反転をやろうとしたとき、背面錐もみに入っちゃった。彼も今日から教官だから、回復動作の手出しをせずに『あ、どうするかな』と思って見てたんです。すると、背面錐もみは通常の錐もみとは操作が逆、操縦桿を引かないといけないのに、ふつうの錐もみと勘違いしたのか、操縦桿を突っ込んでるんですよ。
これはいかんと思い、操縦桿に手を伸ばそうとした瞬間、遠心力でバンドが外れたのか切れたのか、そのまま機外に放り出されてしまいました。
鴛淵中尉は前席の私が飛び出したのを見て、もうだめだ、と思ったんでしょう。続いて脱出してしまいました。飛行機には異常がなかったんですがね……。
しかし、落下傘降下中は静かなもんでしたよ。ほんとうに静か。鴛淵中尉は私より低い高度で脱出したから、眼下に落下傘が開いているのが見えました。ところが、彼のほうからは自分の落下傘が邪魔になって、私が見えない。それで彼は、『田中を殺した、殺した』と自責の念にかられながら降りてきたようです。
降りたところは海の上でしたが、幸い、風が海から陸のほうに吹いていたので、そのままヨットのように、落下傘に引っ張られながら足が立つところまで着くことができました」
――教員、教官として、人に操縦を教えるのも命がけだったのだ。