2022.01.23
# ドラマ

大ヒット『鎌倉殿の13人』、「鎌倉時代の全体像」をつかむための「最高の方法」があった…!

堀井 憲一郎 プロフィール

新書『頼朝と義家』には、この挙兵から平家政権を滅ぼし、鎌倉政権が樹立されていくさまがヴィヴィッドに描かれている。

源頼朝は緒戦には負けるが、やがて安房から上総、下総、武蔵、相模(千葉、東京、神奈川)を配下においていく。そして鎌倉に本拠を構えて、鎌倉殿となる。

 

頼朝の紆余曲折

ただ頼朝は最初から「源氏のトップ」であったわけではない。

木曽にいた義仲や、甲斐の源氏(武田信義ら)、関西東海エリアにいた源行家らそれぞれ「源氏のトップ」となる資格がある者たちが蜂起し、地元を占領しはじめていた。

「平家軍は水鳥の羽ばたきに驚いて逃げた」で有名な富士川の戦いは、源頼朝軍(鎌倉の源氏)の戦いではなく、武田信義(甲斐の源氏)の戦いであり、頼朝軍はその後方を支えたばかりで、勝利による分配にはほぼあずかっていないらしい。

ぼんやりした歴史理解だと、頼朝が平家を追い詰める一環に「富士川の戦い」があるとおもっていたのだが、当書によると、この勝利によって頼朝は源氏の棟梁の座が危うくなる(可能性があった)ということである。鎌倉の源氏ではなく、甲斐の源氏がトップとなる可能性が出てきたのだ。

そういうリアルな記述(結果から遡って当時の実情をすっとばす、ということがない記述)が本書の特徴である。

富士川の戦いのあと、頼朝は常陸佐竹氏を攻め、その領地を家人に分け与えることになる。

源平の戦い(治承寿永の乱)は、だいたい「軍記もの」としてのおもしろさを追っているのがふつうである。軍人としての頼朝や義経に焦点が当てられることが多いのだが、本書では、きちんと「行政者」つまり政治家としての源頼朝像を描いている。富士川のあとに常陸を攻めるさまが、まさにその「政治家としての頼朝」の姿であろう。

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