平安京を壊滅状態にした疫病に、庶民や下級官人はどう対処したか?

貴族と下人を惑わせた妖言の数々
新たな疫神社に密集した貴賤の者は感染者を増やし、疫病が大流行する中で無量寿院の造営を進める道長に藤原実資は憤慨する――毎年のように平安京を襲った疫病に対し、当時の人びとが取った行動は、コロナ禍の現代人に劣るものでは決してなかった。
倉本一宏氏が「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』から、平安京を襲った疫病について述べた箇所を抜粋して公開します!
 

古記録に残された災害

古記録(こきろく)には、災害に関する記述が精確に記録されている。じつはこれらは世界規模における気候や災害の史料として、きわめて有益なものなのである、と『御堂関白記(みどうかんぱくき)』のユネスコ世界記憶遺産(「世界の記憶」)の申請に際して強調したことがある。

海面変動による気候の歴史を示したフェアブリッジ曲線(海水準〈陸地に対する海面の相対的な高さ〉の変化に基づくもの)によると、全体的に温暖であった平安時代のなかで、西暦1000年前後は一時的に気温が低下した時期であった(山本武夫『気候の語る日本の歴史』)。そしてさまざまな災害が、日本列島および平安京を襲ったのである。

なお、アジアの広域の樹木年輪幅のデータベースを統合して作成された東アジアの広域平均気温の年単位の時系列データを活用した、気候変動と災害との関連を考察する研究もはじまっている(中塚武監修、伊藤啓介・田村憲美・水野章二編『気候変動と中世社会』)。

それによると、10〜11世紀は乾燥・温暖の極にあったとされているのであるが、単年度で具体的に史料を見ていくと、そうとばかりは言っていられない現象も存在した。

また、耐火構造になっていない当時の建築は、火災に対してきわめてもろいもので、河川の治水も洪水には無力であった。なお、五重塔は柔構造で地震には強かったが、代わりに雷や風に弱かった。

それにもまして、当時の医療技術や衛生状況では、毎年のように襲いかかってくる疫病に対して、人びとは有効な対応をとることができなかったのである。

下衆や下人を襲った災害の実態

それでも精一杯、これらの災害に立ち向かっていたのではあるが、これは摂関期に限ったことではなく、前近代の科学では、なかなかこれを克服することはできなかった。以下、摂関期の災害、特に下衆(げす)や下人(げにん)を襲った災害について見ていくこととしよう。

一般的には、平安時代の人びとが迷信や禁忌に囲まれて生きており、たとえば物忌(ものいみ)や触穢(しょくえ)、方忌(かたいみ)などに極度に怖れおののいていたというイメージは、いまだに彼らに対する否定的な根拠として定着しているように見える。

こういったものを怖れる平安時代の人間は、我々現代人よりも非科学的で劣った連中であり、現代人は彼らよりも進歩した人類であるという、思い上がった考えである。

しかしながら、当時の科学技術や医療の水準のなかでは、彼らはさまざまな不可思議な現象に対して、精一杯の冷静さでもって、科学的に対処していたのである(現代でも仏滅などを気にしたり、科学的根拠のないお神籤(みくじ)や占いに熱中する人は多いではないか)。

史料に残る平安人は、ほとんどが公卿(くぎょう)をはじめとする貴族階級の人びとであるが(史料ではなく『源氏物語』などの文学作品でイメージする人がほとんどであろうが)、その下位にある下衆や下人たちの実態は、はたしてどうだったのであろうか。この章では、できるだけ彼らの心性や行動、生活の実態も探っていくことをめざそう。

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