処女=原罪を免れた特別な存在
一方、キリスト教で処女ということが問題になるとき、それは主にマリアについて言われます。マリアは神と直接交わったわけではなく、性行為を経ないまま聖霊の力によって身籠もったとされています。
ただ、処女であるということは、原罪を免れた特別な存在ということであり、その点でマリアは信仰の対象となり、マリア崇敬が生み出されることとなりました。キリスト教では、処女性は神聖なものとされたのです。
『性(セックス)と宗教』でふれた宗教学者のエリアーデには「暇な神(デウス・オティオースス)」という考え方があります。これは主に天空神について言われることですが、宇宙の創造神は、当初は最重要の存在と見なされていても、やがて後景に退いて暇な神になり、新しい神が信仰の対象になっていくというのです。
キリスト教は、まさにその道をたどったことになります。キリスト教はユダヤ教で説かれた創造神を共有しますが、その神はやがて退き、代わりに神の子であるイエスが前面に押し出されることとなりました。
十字架に掛けられたイエス像が教会に飾られるのも、それが関係します。神の姿が描かれることがほとんどなかったことも、関心がイエスに移っていく要因となりました。
人類全体の罪を背負って犠牲となったイエスは、信者にとって極めて重要な存在ではあるものの、包みこむような優しさは感じさせません。福音書に記されている伝承でも、イエスは信仰に対する厳しさを常に求めています。
イスラム教では神の慈悲深さが強調され、あらゆることを許してくれる存在だということがくり返し説かれていますが、キリスト教の神やイエスは到底慈悲深いようには見えません。
そこでキリスト教に登場したのが、マリアというわけです。マリアのことは福音書などではほとんど何も語られていませんが、彫刻や絵画においては、慈悲を感じさせるような形をとっています。
とくに数多く作られてきた聖母子像では、幼子イエスを抱き、優しく見守っているように描かれています。

こうしてイエスは後景に退いて暇な神となり、マリアが前面に出るような形になりました。マリアは、三位一体を構成する一位格ではありません。
しかし、マリア崇敬を考えてみるとき、父なる神、神の子イエス、そして母マリアが信仰の対象になっているかのようにも見えます。こうした形での三位一体が成立する上では、マリアが処女であり、原罪を免れていることが極めて重要な意味を持ちました。
仮に、神が直接マリアと交わったという伝承が存在したとしたら、マリア崇敬はもっと別の形をとっていたはずなのです。