基本は、地語りである。講談師が「見てきたような風景」をそこにいた人のように語ってくれる。いわゆる「神の視点」での描写である。
落語ふうの会話もあるのだが、それはサービスのように聞こえる。
喋りに少々違和感があろうが(女性演者が声を作って戦国荒武者を演じようが)もともと付け足しのようなところがあるから、さほど気にならない。戦記物ならば、軍勢の描写が抜群であればそれで満足である。
ちょっと話は逸れるのだが、いま、講談の一節を紹介しようとして、「三方ヶ原戦記」も「赤穂義士銘々伝」も「曲垣平九郎」もどれも、それを文章に書き起こしたものを持っていないことに気づいて、はっとしている。
落語はいろんな「テキスト文」が出ているので、大量に持っているのだが(文庫本で100冊近くある)、講談は一編たりとも手元にない。近年になって出されてないからだ。講談社も出してない。
だから「難波戦記」は、落語『くしゃみ講釈』の講談部分から引っ張ってきた(ちくま文庫「桂米朝コレクション」第7巻)。わかっていたことながら、いやはや、落語と講談にはさほどの差があるのかと、ちょっと茫然としてしまう。
もともとの語りに性差がない
講談のこういう語りは、基本は客観描写であるから、男性と女性の演者で、さほど違いが出てこない。
もともとの語りに性差がないからだ。
落語の場合、男と女が明確に分かれて演じられ、長年の伝統から、どうしゃべればそれらしく見えるかが考えられている。