伊東祐親と工藤祐経の因縁
第2話では、第1話に引き続き、伊東祐親と工藤祐経(すけつね)の険悪な関係がクローズアップされた。どうして、この2人はそんなに仲が悪いのか。ドラマ内では簡単な説明しか行われていないので、十分に理解できていない視聴者もいるかもしれない。拙著『頼朝と義時』でも略述したに留まるので、この場を借りて説明しておこう。
真名本『曾我物語』によれば、発端は伊豆の有力武士である工藤祐隆(家継)による所領配分をめぐって、子孫たちが相続争いをしたことにある。工藤祐隆の息子たちはみな病弱で早逝してしまったので、祐隆の後妻の連れ子である継娘が産んだ男子を嫡子に取り立てて伊東荘を譲り、伊東祐継(すけつぐ)と名乗らせた。一方、祐隆の嫡男(『伊東大系図』によれば祐家、既に死没)の嫡男、つまり祐隆の嫡孫も生存していた。そこで彼を次男に取り立てて河津荘を譲り、河津祐親と名乗らせた。祐継・祐親は共に祐隆の養子であるから、義兄弟ということになる。この所領配分の後、祐隆は亡くなった。
けれども祐親は祐隆の所領配分に不満であった。祐親は祐隆の孫である。これに対して祐継は祐隆の後妻の連れ子が産んだ男子だから、祐隆の血を引いていない。祐隆の血を引いていない「他人」の祐継が、嫡子として本拠地である伊東荘を相続するのはおかしいではないか。自分こそが祐隆の嫡子として伊東荘を相続すべきだ、というのである。もっともな言い分だろう。
ところが実は、祐隆は継娘と密通しており、それによって生まれたのが祐継であった。だから祐継は祐隆の実子であり、祐親の叔父にあたる。そんな事情を知らない祐親は、伊東荘奪回を密かに心に誓っていた。
両者の確執が大いなる伏線に...
さて伊東祐継は43歳で重病に倒れ、危篤状態に陥る。祐継の嫡子である金石丸はまだ9歳であった。祐継の義弟である祐親は祐継の枕元で金石丸を後見すると約束する。喜んだ祐継は、祐経と祐親の娘である万劫(まんごう)御前との結婚を頼んだ。
祐継が亡くなると祐親は河津から伊東に移り、伊東祐親と名乗った。一方で祐親は祐継の追善仏事を熱心に行い、金石丸を安心させた。そして金石丸が13歳の時に元服させ、祐経と名乗らせた。約束通り、娘の万劫とも結婚させた。
翌年、祐親は祐経を連れて上洛し、平重盛(清盛の長男)に目通りした。祐親は祐経を京都に残したまま伊豆に戻り、伊東・河津を不当に独占し、祐経には屋敷1つも分配しなかった。
長ずるにつれ騙されていたことに気づいた祐経は京都で訴訟を起こすが、祐親はワイロをばらまいたので、上手くいかない。しかも祐親は娘の万劫を取り戻し、土肥遠平(どひ・とおひら)と再婚させてしまう。

所領ばかりか妻まで奪われた祐経の怒りは想像するに難くない。ただ、『鎌倉殿の13人』を視聴しているだけだと、祐親が一方的な悪者に見えるが、祐親には祐親なりの正当性があったことが分かるだろう。
もっとも坂井孝一氏は、
さて両者の確執を長々と説明したのは、このことが曾我兄弟の仇討ちの遠因になっているからである。兄弟の仇討ちは、平家が滅び、義経が死んだ後の話だが、この伏線を良く覚えておいてほしい。『鎌倉殿の13人』でどのように描かれるのか、今から楽しみである。
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