前回記事:いよいよ放送開始!『鎌倉殿の13人』第1話を歴史学者はどう観たか
『鎌倉殿の13人』の第2話では、本作の主人公である北条義時が、ついに源頼朝から平家打倒の決意を打ち明けられるシーンが描かれた。頼朝は長い流人生活の中で、他人に心を開かぬ猜疑心の強い人物になっていた。そんな頼朝が、慎重家で、それでいて頼朝への直言を憚らない義時を信頼した瞬間は見ごたえがあった。まさに歴史はここから動き始めたと言えよう。歴史学の観点から、第2話のポイントを解説する。
北条時政の矜持
さて『鎌倉殿の13人』では、頼朝の身柄引き渡しを求めて、伊東祐親(すけちか)の軍勢が北条時政の館に押し寄せる。しかし真名本『曾我物語』によれば、頼朝が北条に逃げたことを知った祐親は頼朝を討つことを断念しており、実際には一触即発の事態には陥らなかったようである。
ただし「武士として一度匿うと決めたからには、北条時政、死んでも佐殿を渡すわけにはいかねえんじゃ!」という時政のセリフは単にかっこいい啖呵というだけでなく、当時の武士の意識を反映したリアリティーのあるものだ。
武士にとって館と所領は命であり、これを外部の侵略から文字通り命がけで守ることが武士のアイデンティティーであった。そして助けを求めて自分のテリトリーに逃げ込んできた者をいったん受け入れた以上、その武士には逃亡者を庇護する義務が発生する。庇護している者を引き渡しでもしようものなら、「子分を守れぬ親分」のレッテルを貼られ、その武士の面目は丸つぶれである。武士はなめられたら終わりで、たとえ不利な状況でも戦わなくてはならない時があるのだ。
細川重男氏は当時の北条氏の状況を「伊東氏に飲み込まれまいとジタバタしていた」と評する(『執権』講談社学術文庫、2019年)。「伊東祐親の言いなりにはならない!」という矜持を時政は持っていたはずで、フィクションとはいえ、そのことを象徴する名シーンと言えるだろう。